さて前回に続いてと言うかようやく「はちゅねミク」の著作権ですが、その前に前のエントリーでもいれましたが、はちゅねミクでは最高傑作と思う「ミク分身の術」の動画を又出してしまいましょう。 ほとんど押し付けですが、そこはまあまあ、よろしく。
さて前回と今回の著作権の事を書くに当たっては青林工藝社出版の「マンガと著作権」 −パロディと引用と同人誌と- を参考にしました。 著作権の今については面白い本です。 マンガ特に「やおいマンガ」についてフランスやアメリカでのパロディの扱い等にも触れています。 マンガ家の「みなもとたろう」(パロディネタで有名)の発言が現実に著作権と格闘しているのが判っておもしろい。 そして、少し前の「筒井康孝断筆事件」の遠因にも成った日本の出版社の「自主規制」への批判も議論されています。 この自主規制というのもいかにも日本らしい問題なので又日を改めて書いてみたいですね。 では前振りはここまでにして、本題です。
まずここでクリプトンが作った3頭身(SD版)の初音ミクと はちゅねミクを比べてみましょう。


はちゅねミクの画像が小さいのでちょっと見にくいですが。 クリプトンのオリジナルはあくまで初音ミクのイメージを保ったまま、3頭身の子供にしているのに比べ、はちゅねミクは完全に”ぼけ”顔をしています。 又、ネギを持っているのもポイントで、クリプトンのイメージにはネギ等ありませんでしたが、例のにこにこ動画オリジナルヒットソング”Ievan Polkka"や”みっくみっくにしてあげる” でネギがミクの必須アイテムになったわけです。 はちゅねミクの命名については、2007年9月11日のOtomaniasん(Ievan Polkkaの作曲者)のブログに、”たまごさんとそろそろあの子(ネギミク)に名前をつけてあげなくてはいけない...”との記述が見られますので、この時点まで”はちゅねミク”は存在していなかった事が判ります。 Otomania
「マンガと著作権」に第二部 パロディの定義“と言う章がありまして、そこでフランスの著作権法の中の”パロディ法“というものを紹介しています。 1957年にできた著作権に関する法律の中にある、 ”もじり、模作、及び諷刺画、但し関係分野の決まりを考慮する“という条文です。 これに続いてフランスでのパロディの成り立つ条件というのを上げています。
これに続いてフランスの著作権裁判の例が乗っています。 これが中々面白い。 一つ目はアメリカの有名なコミック”ピーナッツ”に関するもので、1977年に原作者のシュルツさんが、フランスで出版されたピーナッツのパロディを訴えて負けたそうです。 これはフランスの著名人にピーナッツのパロディを描かせて、それをまとめて出版したのですが、裁判官の判決では”これは明らかにオリジナルのピーナッツの絵とは違っている。 これをピーナッツのマンガと間違えて買う人はいない。”と言うことでパロディとして認められ、シュルツの訴えは退けられました。
もう一つの例は1973年にターザン映画のパロディ(アニメらしい)がフランスとベルギーの合作で作られ、1974年にカンヌ映画祭に出され、1975,76年とフランスで公開され、けっこうヒットした。 それで1978年に原作者、バロウズの遺族が著作権侵害で訴えたのですが、これはタイトルからして、「ジャングルの恥タルゾン」と言う何かポルノのような作品だったらしいです。 これはかなりの大裁判になったらしいですが、結局バロウズ側が負けています。 これもパロディとして認めらた訳です。 つまりフランスでは、パロディであると明白に認められればOKとなる。 なぜなら、フランスには元々”パロディ文化”というものがあって、社会として認めている。 法律というものは結局その国固有の文化に基ずいているので、特にこの様な文化に直接関係するものは、その国の歴史、文化が大きな比重をしめている、という事です。
翻って日本を見てみると、日本にも江戸時代の黄表紙本等のパロディの歴史がある。 又、鳥獣戯画で始まる世界に冠たる”マンガ文化”そのものが、日本のパロディ文化を象徴している。 日本にはパロディが栄える土壌があるという訳です。 平安の昔から和歌の中に”本歌取り”という、有名な歌を基本にして新しい歌を作る技法がありました。 又、日本には多くの”セルフパロディ”があり、作者本人が自分の作品を茶化して喜ぶ風潮があります。 Wikiのパロディの項には色々な例が乗っています。
音楽の例では
以下はタイトルのみのパロディ。
どうです、これだけの歴史、文化の上に”はちゅねミク”が乗っているのですから大したものでしょう。 もちろんここには上がってませんが、無数のパロディに値しない”単なる模倣”も存在したわけで、現在の著作権はそういう”単なる模倣”に対して原作者の権利を守るために作られた事は間違いありません。
しかし、日本の著作権法の第一章第一条”目的”の項には、”この法律は...これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作権等の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与する事を目的とする”とあります。 つまり、権利、権利と言うけれど、最終の目的は文化の発展なんだよ、と言うわけです。 ここのところが判っていないと、”何が何でも著作権で最初に作ったやつが権利があるんだ。 パロディなんて持っての他だ。”と言う考え方になる訳で、それは正しくないのです。
”原作者の権利を守る”という考え方の反対の極にある考え方としては、”全ての創造物はそれに先立つものに基づいている” つまり、”完全なオリジナルなどと言うものは存在しない”と言う考え方があります。 たとえば極端な考え方ですが、”我々が使っている日本語は細かい変更や]新語の追加はあるものの、基本の部分は数百年前に確立しました。 それ以降に日本語で書かれた全ての小説、随筆等は全てその確立した日本語の組み合わせにすぎない”と言う考え方だってあるのです。
もちろんこれは極論でいくらでも反論はあるでしょう。 しかし、ここまで極端でなくても、もじり、パロディ、等も立派な創造物であり、単なる模倣とは区別されるべきだと言う考え方が日本でも支持されるのは間違いないと思います。 「マンガと著作権」にもアメリカのジェームズヤングが”アイディアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何者でもない”と言っている例が紹介されています。
私が思うに、パロディかパロディで無いかという判断の分かれ目は”独立した作品として認められるかどうか”の一点にあると思います。 同じく「マンガと著作権」の中で、とりみきが言った言葉として、”元ネタを知られるとまずいのが盗作で、元ネタを知ってもらいたいのがパロディだ”ありますが、 これは一言で核心をついていると思います。 ”笑わせる”という要素は必ずしも必要だとは思えません。
そして、オリジナルと思うか、感じるか、というのは極めて主観的で、受け取る側の感覚や社会常識に依存する部分が大きいと思われます。 つまり、同じ作品でも、有名な作家ならパロディと認められ、無名の人間の作ったものは盗作とされる可能性もある、という事です。 単純な法律論ではどうにもならないいので、ケースバイケースで判例を積み重ねていくしか方法は無いのではないでしょうか。 その意味では日本でのパロディ裁判の例が13件しかないのは淋しい限りです。
尚、「マンガと著作権」の中で触れられている”ゴーマニズム宣言、戦争論」の例は、この本の出版後、最高裁で判決が出て、小林側の勝訴となっています。 被告側の”引用である”という主張は退けられ、本も出版差し止めになりました。 引用にしては量も多すぎ、ゴーマニズム宣言の人気におぶさって売ろうとしたと判断されました。
著作権については、アメリカの事情やコンピュータプログラムの例等、いくらでも書きたい事があるのですが、長くなるので今日はここまでにしましょう。 で今日のおまけは去年行った上海の写真です。 中心の繁華街は東京のような感じですが、

すぐ側にはまだこの様な古い町並みが残っています。
路上での物売りもいます。
では今日はここまで。
大額和良(おおぬか かずよし)
※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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