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    CNET Japan ブログ

    チャンネル創造力とSenseware

    2010-02-15 01:30:00

    プロフィール

    村上敬亮

    長年、官の立場からIT業界に携わり、政策の立案、実行をしてきた経済産業省 商務情報政策局の村上敬亮氏が、日本の情報産業がさらに発展していくための課題や可能性について語ります。
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     作り手と使い手の間を結ぶ「チャンネル創造力」。ソフトパワーの鍵となるその力のコアは、HardwareでもSoftwareでもない、Sensewareとでも言うべきものに移りつつあるのではないか。

     また、そうしたSensewareの広がりを支えるのは、実は、そこはなとなく共有される大きな「価値観」の浸透力ではないか。3回シリーズの最後は、そんな話をさせていただければと思います。

     2時間分くらいの講演内容を、忘れないうちにと慌てて書きつづっているため、なにやら忙しない感じですが、お許しくださいませ。今回も、前半は従来の主張の繰り返している面がありますが、後半は、やや新しい話になっているのではないかと思います。

     

     

    1.「チャンネル創造力」と新たな「型」のデザイン

     

    (1) マス・メディアとの差別化

     これまで、生活の中で注目を浴びる出来事や文化、ライフスタイルやファッションなど、ソフトパワーの広がりは、テレビ、映画といったマス・メディアが支えてきました。そこから発信される情報やトレンドに、みんな満足してきた。僕らから見える生活や社会の全体像は、マス・メディアを通じて作られてきたと言っていい。

     悪く言えば、自分自身が社会「全体」になりすまして、話題にすべきこと、流行させるべきことを特定してしまっている。マス・メディアには、それくらいの勢いがあったような気がします。

     

     じゃあ、ネットはどう?

     

     ネット自身は、HP、ブログに始まり、twitterも、最近で言えば、Google Buzzも、その技術自体は、世代を越えて流行になっています(buzzはこれから??)。でも、そこでやりとりされているコンテンツの中から何かトレンドが出てきたか?ブログやTwitter自身は話題になるけれど、そこから何か話題になるコンテンツが出てきたか?単純に、テレビや新聞といったマスメディアと較べると、それほどのインパクトはないのが現実ではないでしょうか。

     

     それは何故?

     

     例えば、流行が「コンテンツのネット配信」から出てくるか。もちろん皆無とは言いません。だけど、ネットだけで社会現象が起きるかというと、それをネタに、マスが取り上げて、初めて次の段階に行けるようなところがある。(着メロはちょっと違うかな。。。)

     ネット配信の難しさはコンテンツ不足にあるって、よく言われますが、それだけが理由ではないと僕は思います。もしネットで流通させようとしているものが、マスメディアが流している情報やコンテンツと同じものなら、チャンネルとして何の差別化にもならない。政府はやっきになって、コンテンツの流通促進っていいますけど(苦笑)、ただ、同じものをネットで再送信してみたところで、単純に価格破壊を起こすか、違法コピーを増やすだけで終わってしまう。

     マスチャネルと同じようなコンテンツの流し方を、ネットで再現しようとしても、成功しない。たぶん、成功する必要もない。やはり、マスとは違うかたちで、作り手と使い手をつなごう、っていう強い意志、新しいつながり方の「型」をデザインしようとする意志が必要ではないか。そのつなぎ方をデザインしないままだと、既存のマス・メディアが支えた勢いを超えるようなコンテンツも、そこからは出てこない。

     

    (2) でも、ネットに埋もれる(?)

     でも、Cnetを見ていらっしゃるような方には釈迦に説法ですが、チャンネル側が意図的に作り手と使い手のつなぎ方をデザインしようとする、このアプローチは、そもそも、ネットの流儀とは、ちょっと違う。

     もともと、ネットは、つなごうとするもの、つながりあおうとするものに、インフラ側からは敢えて手を出さない。情報の編集権自体が、コンテンツの送り手ではなく、使い手側にあることを徹底している。自由にコンテンツの編集をさせる、そのおかげで、使い手自身が作り手側に回ってみたり、作り手自身が使い手として楽しんでいたり、そこを自由に行ったり来たりできるのが、ネットの大切なところです。むしろ、中途半端な「つなぎ」なら、しない方が良い。

     実際、その結果、テレビで話題になるニュースと、ネットで話題になるニュースは異なり始めているし、HPにつくユーザ、ブログにつくユーザ、twitterにつくユーザ、これも、それぞれに異なり始めている。ネットは、むしろ自然発生的になすがままに任せた方が、面白いチャンネルに育っていくのかもしれない。下手なデザインは不用。これも一理あると思います。

     

     ただし、気になることが幾つかある。

     

     第一に、この自由な編集プロセスだけでは、せっかく面白いつながりができて、良いコンテンツが生まれても、コンテンツ・ビジネスとしての広がりは出てこない。コンテンツが生み出す収益ということだけに絞ってみると、ミリオンセラーというほど爆発的に広がる訳でもなく、また、提供する単価も往々にして安い。その結果、従来のマスメディアが提供したコンテンツ流通インフラと較べると、どうしてもコンテンツビジネス・インフラとして限界がある。

     加えて、ここに、ネット特有の厭儲意識みたいなこともある。どうも、コンテンツビジネスの収益面としては、ネット発のものは迫力に欠けてしまう。

     意図的に「炎上」するなどして「事件性」を引き上げ、その構図自体をマスに取り上げて貰う。そういう手もあるとは思います(古いところでは、「恋のマイアヒ」?「のま猫」なつかしいですね。)。しかし、それだと、ネットからコンテンツの社会的価値を生み出したとは言い難い。やはり、マスの方程式に依存している。

     結局、ネットは、コンテンツへの「販促」投資を行えない分、商売として常に中途半端になる。やっぱり、ネットって、色々な人と同時にお話ができる質の高い「お電話」(=まさに通信)なのね。そういうことになる。

     

     もちろん、インフラビジネス、通信ビジネスとしては、これでOKです。そうやってトラフィックが増えてくれれば、インフラ屋としての収入もどんどん増える。

     だけど、その上に乗っかるコンテンツビジネスとしては、どこかしら中途半端なまま。通信料金収入は増えても、クリエーターに還元されるようなサービス収入はなかなか拡大していかない。

     たとえ、新しいチャンネルが一時的にできて、面白そうに見えても、すぐに、複数の通信会社が同じようなサービスを真似して始めるので、結局、クリエーターの方は発表の機会を求めて複数社から逆に天秤にかけられる立場になる。最後は、サービスとして安売りせざるを得なくなる。この構図を繰り返しているように思います。(Joost(ご参考)のことは、まだよく分かりませんが。)

     

     このままだと、せっかく、ネットの中に様々な面白いコンテンツがあっても、それらが商売にならずに埋没してしまうのではないか。個人的に、そのことに対する凄く強い焦りがあります。

     アシカに、クリエーターに収益を還元していたテレビ、ラジオ、雑誌などのマス媒体がと弱ろうと、クリエーターは、ネットなどを通じ作品を作り発表することはできる。しかし、コンテンツ作りで金銭的リターンを得る機会が、社会の中でどんどん減っていってしまうのではないか。

     ネットに任せておいても、良いコンテンツは育つ。でも、コンテンツ制作だけで飯を食えるコンテンツのプロはどんどん減っていってしまうのではないか。コンテンツ作りは、みんな副業でしかできない、みたいなことになって良いのか。そんなことで、本当に十分なソフトパワーの発信力を日本社会(?)は維持できるのだろうか?

     プロのクリエーターの育成環境という側面から、まだまだ工夫が必要な気がしています。

     

     強いていえば、もう一点。それが、ネットが持つKY嫌いの文化、美人投票的文化です。

     

     ネット文化がKYを排除しよう排除しようという方にみんなを追い込んでいくと、勢い、エッジの立った人ほど、見えにくいところに隠れてしまう。ネットって、またそれができてしまう。

     コンテンツは、作り手と使い手がつながって、共感して、初めて意味があります。そして、その「関係性」が第三者に「見える化」して、初めて市場価値を持つ。なのに、隠れられてしまったら、その新しい「つながり」が生み出す市場価値が、広がっていかない。

     例えば、坂本龍一さんをはじめとして、錚々たるミュージシャンの皆さんがChain Musicに興じて素晴らしい作品ができても、それは、その中身及びITのリテラシーレベルの双方が同じレベルにある方の間でのみ、知られて、流通して、それでお終いになってしまう。

     

     坂本さんも、かつてエントリで取り上げさせていただいたユリイカの特集の中で仰ってましたが、ネットの中にもかなりクオリティの高いコンテンツはある。

     でも、そういうエッジの立った人がどこに生息しているのか見えにくくなってしまって、素人のつぶやきばかりになってしまっては、いくらネットで、つぶやきが見れても、正直、それは、あまりソフトパワーにはなりません。通信会社が儲けてお終い。

     力のあるクリエーターが、プロとして育って、商業的にも成功するような育成の場が、もっと必要ではないか。力のあるコンテンツが、社会的にパワーを持つためには、審美眼のあるユーザと出会って、共鳴して、その構図自身を第三者に見える化しなくてはなりません。今は、そういう意志を持った間に立つ流通チャンネルが、もっと必要なのではないでしょうか。

     そのためにも、もう少し意図的に、編集し、若しくは、編集しようとするネットワーク自身をデザインしようとする人を、ネットも含めて、もっとうみださなければならない。

     新たな「見る」/「見られる」の関係のデザインに、若しくは、コンテンツを見せる新たな「型」の創出に、もっと意を注ぐ必要がないか。そんな焦りを感じています。

     

    (3) 新しい「型」を作る。

     作り手と使い手を繋ぐ新しい「型」を作っていく必要がある。ネットだけで完結させる必要はありませんが、ネットも含めて、新しい、作り手と使い手の「つなぎ」を編み出していく必要がある。

     その点をみるため、ちょっと寄り道になってしまいますが、「見る」/「見られる」の関係性という話に触れておこうと思います。

     

     やや繰り返しになりますが、コンテンツを作る、という作業は、使い手(視聴者、ユーザ)まで届いて、初めて完結する。伝える相手がいない、ただのつぶやきや、誰にも見られることのない自作の絵画などは、台詞や絵ではあっても、コンテンツにはなりません。それは、これまで申し上げてきたとおりです。

     つぶやきを主眼としたtwitterでさえ、フォローする相手と、フォローされる相手がいて、初めて価値を持つ。そこには、必ず相手がいる。誰かに「見られる」自分、誰かを「見る」自分という関係性が常に伴います。が、この「見る」/「見られる」の関係(見田先生の授業で、さんざんっぱら教えていただきました。テキストは、この辺?)って、実は、単純に見えて、結構複雑です。

     

     社会学の一般教養の授業みたいで恐縮ですが、例えば、ただ通りすがりの人を「見たり」、「見られたり」しても、ストリートファッションなど特別の目的を意識していない限り、物理的に見ているだけでは、何のコンテンツも伝わりません。街の看板も、それを「カンバン」だと意識すれば別ですが、そこにあるだけでは、ただの街並みの一部に過ぎません。

     実は、コンテンツが、コンテンツとして意識され、伝わるには、そのメッセージを伝えるための、「カンバン」という機能や「ストリートファッション」を楽しむ文化といった、コンテンツを伝えるための「型」が必要なんだと思います。もっと言えば、そこに「ウラハラファッション」といった「型」を更に支える大きなトレンドがあると、なお良い。

     

     例えば、ラジオ・テレビ番組や映画といったコンテンツのフォーマットは、まさに、視聴者が安心して見ていられる安定した「型」そのものですし、twitterやブログも、RTやトラックバックなど、そのチャンネル独自の「型」を、まずは自分なりに理解しないと、コミュニケーションの道具として使いこなせません。

     「8時だよ全員集合」なら、最初にどういうコーナーがあって、真ん中に歌とか歌ってて、8時40分頃になると志村けんが出てきて、最後は、「みんな歯磨けよ〜」っていわれる。そのことをみんなが知ってる。視聴者も、その「型」が分かって見てるから、もう、見てる方は、凄く安心しながら見てるし、番組作る方も、その強力なフォーマットの力を借りて、中身だけに集中することができる。水戸黄門も、最悪、最後の5分だけ見ればいい(苦笑)。それで十分、開放感を味わえる。

     ブログのトラックバックやtwitterのRTなども、最初はどういうことなのか分からなくて戸惑うけれど、使い始めて、その「型」が分かってくれば、逆に、超便利な道具になってくるし、それにあわせて、自分の日常会話とはまた違ったぶやき方や書き込み方を身につけるようになる。

     

      もっと言えば、日常のコミュニケーションでも同じです。学校の教室、職場の仲間、商店街のおばちゃん、といった、それぞれに相互が了解している関係性の「型」があるからこそ、その中で、何かを伝えたり、伝えられたりできる。通りすがりの道行く人も、そこにストリートファッション観察や、そうした街の目線自体を楽しむような空間(例えば、ウラハラ?、オモサン?)について、双方に共有されたコモンセンスや理解があれば、何かを伝えることができます。

     ですが、そういうものもなく、ただ渋谷駅のホームで、見知らぬ人とすれ違っても、そこでは何も起きません。どこの誰だかわからない人に急に話しかけられても、急に何かを見せられても、ただ、困惑するだけです。

     

           *       *        *

     

     ものを消費することに主眼があった高度成長期のような時代には、職場、家庭、学校といった比較的決まり切った画一的な「型」の中で暮らし、「8時だよ全員集合」やプロ野球中継といった、これまた、わかりやすい「型」にはまったコンテンツが大量に流通していたように思います。だからこそ、マスの流行も成立しやすかったし、みんなシンプルに王・長島に共感したり、ドリフのギャグを学校で再生して楽しんだりすることができた。

     でも、今は、職場観も色々、教室の持つ意味合いも人によって色々、家庭環境も色々、そうした人生・生活環境の多様化がどんどん進んできているように思います。また、その中で、いろいろな思いを引きずった人が、ネットを通じて、自分にあった関係性や「型」を模索している。

     今みえている目の前の「教室」では、昨日、王や長島がどういう活躍をして、志村けんさんが先週土曜日にどういうギャグをしたか、そんなことを知ってても、そのモノ真似ができてもあまり意味がない。そんな風にテレビを見ている暇があったら、日々、裏サイトをチェックし、一番KYなワードや人物をチェックしていなければならない。また、そのことにいつも焦燥感を感じているからこそ、絶対に共感できる安心な相手とつぶやきあって安心を得る時間の方が、テレビやラジオを見聞きしている時間より大切になる。

     

     昔なら、そもそも裏サイトなど存在しないし、そんなにこまめに友達と連絡しあうにも、そのこと自体にすごくコストがかかった。でも、幸か不幸か、今は、携帯一つ持っていれば、難なくできてしまう。実際に、「みんな」がやっている。まさに技術革新の成果が生活の隅々にまで浸透してしまった。

     だからこそ、「教室」の中に複数網の目のようにあるネットワークの隙間をうまく縫って、うまく生きていかないといけない。その隙間をうまくサーフィンして、その上で、何か気の利いたポーズの一つでも取れると、今日はちょっと良かったかな、みたいな。どうやら、そんな時代に変わってきたような気がします。僕のようなアナログ世代からすると、とても疲れそうな生活ですよね。

     

     自分は、米国に留学させていただいたときにICQのヘビーユーザだったのですが、その時、友達と、いとも簡単に24時間リアルタイムにつながるって、こういうことなんだって、凄く新鮮でした。テレビやマスの話題より、身近な仲間の動き。飽食の時代という時代背景もありそうですが、それ以上に、身近な人とのコミュニケーション手段の進化が、マスから振ってくる情報より身近なモノの方が大切、そういう状態を生み出しつつあるような気がします。

     たまに大学で教えさせていただく機会を頂戴すると、学生さんのレポートや回答のあまりの安直なCut & Pasteの多さに困惑することがありますが、逆に言えば、僕らの時代には、そういうツールがなかっただけなのかもしれない。オリジナリティを重視すべきだと学生さんに叫んでみたところで、そんな講師の台詞だけで創造力を喚起できると思っている方が、根本的に間違っているのかもしれない。最近、そう感じます。

     

     

    2.チャンネルを切り出す

     

    (1) 柔らかな関係性のデザイン

     こんな多様化した複雑な時代に、それなりに広がりと深みを持った共感の輪を拡げるのは、並大抵のことではありません。その中で、どのような「型」を作るのか。マス・メディアのように、社会全体を一つの色に染められる、そんな全体性の虚構を使って価値を生み出せる時代は、もう終わっている。

     でも、作り手と使い手を、どうやってつなごうか、そのつなぎ方に対する意志が不用になったわけではない。全体が見えないからと、ただネットの中でたゆたっているだけでは、第三者にまで広がりのある「価値」は生まれてこない。

     まさに、コンテンツとメディアはワンセットで「デザイン」されて初めて、新しい力を持つ。その関係性のデザインこそが、ソフトパワーの鍵を握る「チャンネル創造力」そのものなんだと思います。

     かつてi-Modeが一世を風靡したのも、そのサービスの切り出し方と携帯電話というものの使い方の提案において、かつてない作り手と使い手の関係性を提案していたからではないか。そこに、かつてない便利な「型」があったからではないか。数少ない通信側からのアプローチの成功例として、そんな風に思います。

     

     これからのコンテンツビジネスって、極端に言えば、これまで捉えてきた次の二つの特徴にどう対応していくか、そういう風に課題を集約できるのではないでしょうか。

     第一に、「全体」ということを誰も容易には信じない。全体性という仮構が通用しないので、「今、これが流行ってるヨ」、みたいな上から降りてく感じで何かを拡げようとしても、凄く「浅い」感じになる。むしろ、共感力のある仲良し3人組の話題、みたいなところから、しっかりと話題を積み上げていかないといけない。

     第二に、情報の編集権が、基本ユーザー側にある。今までは、何を面白いと思い、何を格好よく見せるか、そのための起承転結含めて、基本的なストーリーは出し手側が作った。だけど、今は、それをユーザ側が自分達でやることが基本になっている。

     

     ここに、今のマスメディア、そのままでは、根本的に太刀打ちできない大きな限界がある。

     以下では、この辺をわかりやすく捉えるため、敢えて大胆に、70〜80年代をHardwareの時代、90年代〜2000年代をSoftwareの時代、これからをSensewareの時代と呼び分け、対比をさせてみようかと思います。

     

     Hardwareの時代は、モノから入ります。高度成長期を支えた流行は、自動車、家電製品、ファッション、グリコのおまけ、みんなモノの形をしていた。そこに、その性能を語るためのスペックを付け、カタログを作り、そのカタログスペックという「全体」からみた評価指標があった。国民全員が、それを知っているし、自分もそれを知っていると言うことに、大きな安心感と、その獲得を目指すべき根拠があったように思う。

     また、そもそも、自分の生活に、次は冷蔵庫、次はテレビ、次はビデオ、そしてクルマと足りないハードウエア機能があり、その機能を自分の生活の手に入れるということが、十分、人生のモチベーションになっていった。そして、何せ最後は、マイホームだった。

     

     しかし、90年代に入ると、だんだんと生活に必要な機能は満たされるようになり、時代の主役は、HardwareからSoftwareに変わってくる。

     Hardwareの市場は、新規ではなく、買い換え需要が主力となり、また、その選択に当たっては、一般購買層のレベルでも、クルマが性能よりデザインで語られ、家電にスタイルやデザインなどソフト的な面が重視されるようになる。ファッションも、それを裏打ちするライフスタイルが表に出てくるようになる。

     新規の市場ということでは、メーカー内で当初はあまり期待されていなかったプリウスが、環境というソフトな価値観を軸に据えて爆発的に売れた。コンピュータ業界は、やっとIBM紛争やコンピュータの政府調達紛争にけりをつけたと思ったのに、いつの間にか市場がソフト主役に変わって、気が付いたら、かつてデバックしてあげて、面倒を見てあげていた米国製ソフトに国内市場を大きく浸食されていた。確かに、デジタル技術の進化で新・三種の神器が一世を風靡したものの、これも、本質はある種の買い換え需要であり、真に唯一のHardware新規市場といえば、携帯端末くらい。

     また、有名観光地の隅々にまで日本人旅行客が行き渡り、Shoppingからグルメまで様々な情報が提供されるなど、生活を彩るソフトについて、身近に情報が溢れるようになり、海外旅行やグルメな外食が、ハレの機会ではなく、ごくごく日常的にある時代になった。そして、タウン情報誌がちまたに溢れ、世界中の観光地やグルメの情報が身近に氾濫するようになる。

     

     こうして時代の主役は、HardwareからSoftwareの時代になったように思います。

     しかし、それでもなお、全体での流行があって、全体での評価があって、その中から自分が好きなモノ、自分にあったモノを選ぶ、そういう構図自身は、実は、Hardwareの時代と何ら変わっていない。

     某かの全体性ということをまずは肯定し、その評価の中から自分にあったモノを選ぶ、そういう嗜好性自身は、Hardwareの時代と同じような気がします。だから、商品・サービスの開発も、まずは市場「全体」の動向ということを見ようとする。ここに、Sensewareの時代との根本的な違いがあるような気がします。

     

     今は、たぶん、「全体性」ということ自体が信じて貰えない、編集権も供給者側ではなく、ユーザ側にある。そういう時代に、スペックも、市場評価も、あったものではありません。大事なのは、一人一人のユーザにとって何か感じるものがあるかどうか。敢えて感じる理由が、身近にあるかどうか。

     「全体性」を信じてくれない市場に対して、全体の構造から説き起こして、ユーザとつながろうとしても、つながりません。ユーザに直接響かないといけない。感性で触れる部分がないといけない。そうしないと、伝えたいこと、コンテンツが、ユーザまでつながっていかない。HardwareでもSoftwareでもないような、Sensewareが「結びつき方を変える」。そういうSensewareの時代に、僕らは今、入ろうとしている。

     起点には、マスプロモーションでも、誰かの評価でもなく、身近な人の共感、自分自身のセンスにあう感性、何かそういうものがく必要になっている。積み上げ型でできあがった柔らかな関係性の上に、市場としての広がりを作っていく。新たな関係性を生み出すようなSensewareに、みんなの気持ちが吸い寄せられるような、そんな時代になってきている気がします。

     

    (2) Soft Editingへ

     もともと、SENSEWAREということを広く言い出されたのは、デザイナーの原研哉さんです。原さんは、Sensewareのことを「人類をその気にさせる媒質」と書かれています。以前のエントリで一度引用させていただいた原さんのご説明の要点を拾うと、次のような感じです。

     

      例えば、白い紙。今でこそ白い紙は当たり前ですが、太古に遡れば、身の回りにはアースカラーしかなく、「白」は、骨や卵の殻といった生物の生死の際や、水しぶきや雪、花弁などのはかないものの周りにのみ偏在していました。しかし、紙の原料となる樹皮もそのものは生成色ですが、その繊維を叩解して水中人分散させ、すくい上げて天日に干すと真っ白な紙が出来る。ここに発見された「白」は、人の感覚に大いなる活性化をもたらしたはず。白は汚れやすくはかないものですが、その良さ故にとても尊いものに感じられます。また、白は膨大な成就を予感させる未発のときめきをたたえています。壊れやすい美しさとともにある繊維で真っ白な枚葉に、墨で黒々と文字や図を描く。そのコントラストの中に、人類史上最もめざましい感覚の覚醒があったはずです。 ・・・(中略)・・・ 紙は書写・印刷のメディアであると同時に、白さと張りで人類の感覚を創造へと駆り立てたSENSEWAREでもあるのです。  

     

     これを読んで、僕は、iPodのあの操作ボタンをはじめとするUser Interfaceは、ここでいうSENSWARE的なものなのかもしれないと感じました。また、すぐ思い出したのが、初代Macが採用したGUIのことです(Smalltalkをとりあげるべき?)。あれも、みんなが、「そうか、その手があったか・・・」。それまで、多くの人にとって、弾道計算をはじめまさに計算機として存在してきたコンピューターというものの意味が変わった。若しくは、電子計算機室に鎮座している大きなBigBlueの機械というイメージの何かが変わった。ユーザは、見てみて、少し使ってみただけで、Macintoshに、従来の電子計算機とは別の可能性を直感することができたのではないでしょうか。 

     テレビをテレビと感じさせない何か。自動車を自動車と感じさせない何か。自動車だか、プライベートルームだか、人に自分を見せるための道具なんだか、なんだかよくわからないけど、「そうか、その手がありか」みたいな、そういう、痺れるような共感力の源、みたいな感じですね。

      Kindleは機能で語られちゃうので、痺れてこないけど、iPadは、早くさわってみたいような、でも、iPhoneで十分だと納得してしまうような、なんだろう、っていうそういうワクワク観みたいなものがある。

     

     別に著名人の評価も、ブームも必要ではない。むしろ、著名人の評価などより、身近な人が「良いね」って言ってることの方が、大事。そういう、庶民感覚や特定の人のセンスに響くような、身近なところに感じられる共感ネタが、最も力強く響く。

     例えば、ありふれた例で恐縮ですが、地元にすっごく自慢の飲み屋さんとか、お花屋さんとかがあって、で、実はそこで売ってるモノって、簡単に人に見せたくないけど、見せると、「これ、良い良い」って、友達の間でなるみたいな。そういうミクロな、そしておそらくトリビアな喜びを積み上げていくこと。

     そして、そのやりとりをどういう形でその他大勢の第三者に見せるか、そのソフトな関係性自体をデザインすること。それが、ひいては、Localityにも根ざしたライフスタイルそのものを作り上げていく戦略につながっていくのではないでしょうか。

     

     以前だったら、おそらく、こうした流行のお店やライフスタイルを、一人の有名人の生活に強引にイメージ寄せしてアピールしてみたり、雑誌ブランドが強引に特集・編集して一つのスタイルにしてみたりしながら、世の中に半ば強引に降らしていたんだと思います。

     しかし、今は、その手はあまり通用しない。それを、仲良し三人組の間に感じさせ、またその仲間に染み渡らせて、徐々に積み上げていく。そのパスを通らずに上からトレンドを落とそうとしても、誰も受け取ってくれない。

     読者モデルの世界が受けるのも、その身近さをアピールしたコミュニケーションの構図に勝因があるんだと思いますが、そういう手の込んだ対応が必要になっているような気がします。

     

     情報の編集権がユーザ主導に変わる時代、それでもなお編集に対する意志を持ち価値を生み出そうとすると、どうしても、こういうアプローチが必要となる。このことが、編集しきれない構造全体を、なお編集し価値を生み出していくための肝にあるのではないでしょうか。

     

    (3) 産業と文化の新しい間合い

     ISEDを通じて色々なことを教えていただいた東浩紀さんが、今精力的に、「思想地図」というシリーズの批評に取り組まれています。 第三巻がアーキテクチャという特集になっているのですが、そこで書かれていることを読んでいて、自分はずっと、同じところに引っかかっているんだなあという気がしてきました。

     ひろゆきくんのことを書いている同書の東さんの言葉を、ちょっとそのまま引用してみます。

     

     全体性を持つ、社会全体を考えるという幻想がなくても、こんなに世界を変えている奴らがいるじゃん、という現実が今目の前にある。だからこそ、・・・(中略)・・・僕としては、西村博之的な、ある種の固有名からの逃避というか、自分で作家主義的切断をするでもなく、かといって完全にアーキテクチャに身を委ねているわけでもないような主体をどういう風に捉えていくか、というほうが重要だ思う。

     

     この対談でも行ったり来たりしているのですが、結局、全体性がわかりやすく捉えられなくなっている現在、それでも、?勝手に生成されるシステムができそうだからそれで良いじゃないか、という見方と、?いや、やはりそういう構造自体を、どこかで仕掛けに行かなきゃいけないんだという考え方。両方が並立している。

     もはや、構造や全体を語る時代を終わったんだから、自生的秩序に身を任せればいいという見方と、いやいや設計主義的に全体を見据えようとする立ち位置はまだまだ重要だという見方。そう言い換えることもできます。

     

     こう表現してしまうと、何やらややこしく響くかもしれませんが、実は、このクエスチョン、マスにモノやサービスを売りたいと思っている企業にとっても、とても大事になっているような気がします(こんな引用の仕方をすると、東さんに怒られそうですが・・・)

     

     市場にたくさん、商品やサービスを提供したい企業にとって、これから大切なのは、どう市場とコミュニケーションをしていくかです。でも現実、今って、ネットマーケティングだけでも駄目だし、大手代理店に広告を頼んでも上手くいかない。何から手をつければいいのか、どの企業も、とても悩んでいるのではないか。

     以前のエントリも書きましたが、今や、市場競争の根幹は、個々のモジュールの品質・性能というよりも、それを取り囲む市場全体のアーキテクチャデザインに関する主導権の確保と、アーキ全体に対する信頼の確保にあります。そのことは、既に、一部の人には、強く意識されているでしょう。

     けれども、ネットマーケティングに手を出して、ただ市場の地べたに降りてみたところで、おそらく、何も見えてこない。かといって全体の市場の構図を捉え、それを製品開発に必要なスペックに変換してみようとしても、結局、何の構図も見えてこない。

     

     では、その時、このブログが初期の問題設定に使わせていただいたiPodは何をやったのか。

     新たにアーキを造り、次世代の市場を主導していくには、このSENSEWAREに対する圧倒的な市場支配力。そのことがものすごく大きな意味を持つし、そこに、ソフトパワーの時代と呼ぶべき本質が隠れているような気がします。言い換えれば、断片化してしまった関係性をつなぎ直す、「大きなものがたり」をどうやって再構築するか。iPodに始まるAppleの一連の戦略は、まさに、そこに果敢にトライしているような気がします。

     

     ちょっと分かりにくいと思うので、敢えて、Sensewareの時代と、それ以前の時代とを、マーケティング的視点、若しくは開発プロセス的視点から、大胆に対比させていようと思います。

     

     今までのものづくりは、開発と生産が一体化し、流通・消費者に向けて、「次の商品はこれです!」というものを市場に降らせていた。

     でもこれからは、違う。おそらく、開発と消費者が一体化し、みんなの心に響くモノを作る。それを、生産と流通が一体化して、最適規模で効率的に生産し流通させていく。そういう時代に、変わってきてるんだと思います。

     

     まさに、絵にしてみると、こんな感じでしょうか。

     

     Hardware,Softwareの時代は、「製品開発→マス・マーケティング→マス消費」の時代。「開発・生産者vs流通・消費者」というのが基本的な構図になる時代。

     

     

     それに対して、Sensewareの時代は、「Senseware/市場価値発見→最適生産・最適流通」の時代。「開発・消費者vs生産・流通」というのが基本的な構図になる。

     

    <

     

     必要なのは、「ものづくり」自体ではなく、「ものがたり」。そこで、市民の感性のどこかに何かしら響くSENSEWARE。その辺に、今、目指すべきモノがあるような気がします。

     

     

    3.大きな「物語/伝承」の再構築

     

    (1) 生活感のない生活とコモンズの悲劇

     

     では、こうしたSensewareを生み出しやすく、また、普及しやすい土壌を作るためには、何が必要なんでしょうか?

     

     Hardwareの時代にそれを支えたのが、機能に対する枯渇感。三種の神器が欲しい、ビデオが欲しい、性能のいい掃除機やカメラが欲しい。何より、クルマが欲しい。家が欲しい。そういう物質的な充足感にドライブされた、高度成長期型の人生観。それが社会的にも、大きな原動力を生み出していたように思います。

     

     それに対して、Softwareの時代にもてはやされたのが、おそらく、一時的にうそぶかれた、「ゆとりと豊かさ」。自分の生活は、こういう風に、ゆとりを作ることができ、豊かになれるんだという幻想(敢えて幻想と書いたのは、当時から、豊かさとはそういうものではないという正論が並行して普及していたと思うからですが・・・)。

     しかし、何の努力もしない者にゆとりも豊かさもなく、努力をしている者にも、そんなゆとりも豊かさもない、その当たり前の事実が暴かれつつある現在、その反動としての社会的真実の所在を、どう証すか。

     物質的豊かさへの希求感がHardwareの市場を支え、ゆとりと豊かさへの幻想がSoftwareの市場を支えたように、そこに大きなバックグラウンドができていくと、Sensewareの時代をしっかりと支えてくれる何かができそうな気がします。

     

     では、何が必要なのか。

     

     端的に言えば、政府にいる僕が申し上げるのも何ですが、壊れかけている「公共」の再生。もっと即物的に言えば、とりあえず、医療・福祉と教育の再生。高齢化社会として、国家モデルとしての壮年期から老年期に入ろうとしている戦後日本の再設計。そんなことなんじゃないか。

     もちろん、僕が、今、担当している地球温暖化問題も、そうした課題のうちの一つに並べることができるんだと思います。

     おそらく、神話や伝説が、往々にして題材にしてきたような、そういう、ものすごく社会設計の基本的なところに、日本社会の色々な課題が帰ってきつつある。経済学が好んで、「コモンズ(共有地)の悲劇」と語るような、そういう社会的共通資本的なものが、今とても大切になっている。個人的にそう感じています。

     

     内橋克人先生と、宇沢弘文先生が、往事からの主張を炸裂させている本(「始まっている未来」)が、最近出ていました。「大ご隠居、咆哮する!!」って感じで、まあ凄い剣幕ですが、でも、時代のニーズは、本当にそういうところに帰ってきているのではないか、そんな気がしています。

     確かに、時代が全体性とか社会とかっていうことを信じなくなってるんですから、考えてみれば当たり前のことかもしれません。。 

     

     今更、経済学の講義でもありませんが、社会生活を営んでいく上で、市場原理だけに任せて短期的視野に委ねたら、ずたずたに壊れてしまうモノがある。例えば、みんなで肥沃な牧草地に競って牛を放牧してしまったら、いつしか牧草地は完全に枯れてしまう。だから、共有地として、みんなで管理をし、土地を休ませなくてはいけない。そういう、競争原理だけではフォローすることのできない、生活の知恵に根付いた社会の常識というモノがある。

     この「コモンズ(共有地)の悲劇」は、知的財産の問題をはじめ、最近では、色々なところで、色々な意味に引用されるようになってきていますが、そういう社会が公共的な財産として管理すべきもの、大切にすべきもの。そういうところに棹さすような骨太なメッセージが出ると、Sensewareが伝わりやすくなるのではないか。

     それが、物質的豊かさへの欲望に支えられたHardwareの時代、ゆとりと豊かさという幻想に支えられたSoftwareの時代に対する、Sensewareの時代の方程式になっていくのではないかと思っています。

     このままだと、おそらく意味不明なので、長くなって恐縮ですが、もう少しだけ解説をさせてください。

     

    (2) 「公」とマクロの価値観の再構築

      では、Sensewareは、医療や教育や、公共的な課題に直接根ざしたモノではなくてはならないのか。たぶん、そんなことはないと思います。

     iPodのセンスだって、そんな難しいこととはほとんど関係ない。ただ単に、「カッコ良い」だけです。たぶん、それで良い。そこには、色々な「カッコ良い」があるんだと思います。全てが、公共的な課題に直接リンクするようなものである必要はない。

     

     この面で、一番わかりやすいのが、実は、今自分が担当している、「エコ」だと思います。多くの人にとって、実は、地球が温暖化しているかどうか、その信憑性自体は、あまり問題ではない。もちろん、根っこが揺らいでもらっては困るけれども、大義名分として、しっかり立ってくれていれば、それで良い。

     だって、地球温暖化が本当に地球のためにけしからんのであれば、それはそのまま、人間が地球で存在して産業活動をしていること自体けしからんのかもしれない。ある意味、無理矢理温暖化のペースを落として、生き残ろうとすること自体が、人間のエゴなのかも。そういう常識的なことって、案外、人は普通に直感的に理解しているのではないでしょうか。

     それでもなお、地球温暖化が大事なのは何故か。

     どこに、今の社会の間違っているコモンズの悲劇があるのか。大切にすべき社会的共通資本はどこで失われているのか。そのことに対するメッセージの発出ということ自体に、強烈に社会的ニーズがある。おそらく、そういうことなんだろうと思うのです。だから、それが明確であればあるほど、カッコ良い。

     

     冷房や電気をつけっぱなしにしていても、実際にはほとんどの人が平気なわけですし、自分の生活がエコでないことなんか、実はご自身が一番よく分かっている。でも、できる範囲では、そういうことにも協力してみたいし、それができることが、少しカッコ良いと思ってる。で、そういうカッコ良さの方が、機能に対する充足感より上回るから、スポーツカーより、プリウスが売れることになる。

     清水エスパルスが、排出権を自ら購入してまで、カーボンフリーなJリーグの試合の実現に拘るのも、多くの企業が、中期経営計画にカーボンフリーを取り入れるのも、そうした姿勢が、顧客に価値観として広く受け入れられるのではないか、そういう期待があるからだと思います。

     環境問題の主役に鎮座する地球温暖化(途上国における水不足、水質汚染、大気汚染なども、地球規模的課題としては更に同じかそれ以上に深刻のような気がしますけれども。。) は、色々な広がりや形を持って、企業や個人に、自らの姿勢を示す大義名分として広く浸透した。

     それは、それぞれの人にとって、それぞれのカッコ良さをアピールする上で、十分な大義名分を提供し、また聞き手側も、温暖化問題というしっかりとした背景があるおかげで、安心して、そのメッセージを理解することができているのではないかと思います。

     

     こうした、バックグランドになる価値観、大義名分って、実は、Sensewareに富んだ社会を作る上で、とても重要な鍵を握っていると思います。

     逆に、せっかく良い取組をしていても、裏打ちとなる価値観が弱いが故に、中途半端になっている例もある。

     

     失礼かもしれませんが、僕は、個人的に、その典型が、ユニバーサルデザインではないかと思っています。

     僕が言うのもおかしいですが、ユニバーサルデザインの方が、カーボンフリーよりも、身近な取組としては、よほど実益があるような気がします。機能的だし、中途半端な温暖化対策より、余程実利がある。なのに、何となく中途半端に終わっているのは何故か。

     おそらく、それって、ユニバーサルデザインが、バリアフリーのような障害者のためのものなのか、高齢者対策なのか、乳幼児に優しいということなのか、何なのか。それがよく分からなかったことに原因があるのではないか。

     「できるだけ多くの人が利用可能であるようなデザインにすること」(それを更に書き下した7原則はこちら)、そういう定義はしっかりあったわけですが、その背景にある価値観に分かりにくさがある。その分かりにくさが、「カッコ良さ」を演出するための骨太な価値観としての、弱みにつながり、今ひとつ広がりに欠けたのではないか。そんな気がしています。

     

     コモンズの共有形態って、おそらく、一番、その社会やコミュニティの特徴が出る。その中で重要なのは、例えば牧草地の管理方法といった個々のルール、ユニバーサルデザインのような具体的な取組レベルのものもあるけれども、最も強く普及力、伝染力のようなモノを生み出すのは、その背景を支える文化的な価値観や考え方の方なんだろうと思います。

     今、みんなが社会とか、全体性とか言うことを信じなくなりつつある中、それでも、どこかに、自分が守るべきコモンズがあるんじゃないか。それを大切にすることによって、もう一度、社会の方も、自分(個人)の人生をもっと大切に考えてくれるんじゃないか。そういう願いにも似た響きが、ネットのそこかしこに潜んでいるような気がする。

     そうした、カッコ良さを支える、もう一つメタなレベルの大義名分を骨太に育てて、そこに様々なSensewareのネットワークを拡げさせる。いわば、新たな関係性の目を縦横に這わせる、藤棚のようなモノを作れると、豊かなコミュニケーションと価値観の輪が自生的に広がり始めるのではないか。そんなことを期待しています。

     

     過去最長のエントリも、そろそろこの辺でと思いますが(苦笑)、Senseware自身は、「白」の発見であったり、iPodのUser Interfaceであったり、カーボンフリーな試合だったり、それぞれに、楽しく、カッコ良い生活をしている人達の中から生まれてくるんだと思います。

     政府という僕の立場で、そのことに個々にアクセスするのは、止めた方がよい。そういう新たな関係性構築への試みを見える化する上で、ほんのごく一部を支援してみるくらいなら良いかもしれませんが、少なくとも、僕自身がもっと人から憧れられるようなカッコ良い生活になってない限り(そんなことは、永遠になさそうですが・・・(苦笑))、してもろくなことにはならないような気がします。

     ただし、そういう新しい関係性のデザインや、カッコ良いライフスタイルが流通させやすくなるような、大義名分の提供、公共的な価値観の確立ということについては、それを骨太な流れとして、どんどん取り組んでいくことができる。

     そういう、公共的な課題、社会的共通資本を大切にし、問題提起し、政府自らもそれを解決しようとするような、そういう議論を盛り上げることが、ひいては、Senseware的なモノの流通を広く、太くしてゆき、ひいては、国際競争力にもつながっていくのではないか。

     

     なんだか、風が吹けば桶屋が儲かるみたいな終わり型で恐縮ですが、そんな風に感じています。長文ご拝読、ありがとうございました。

     これで無事に、思い出すべき講演ネタが尽きたので(苦笑)、次回からは、また、少し違う話を取り上げてみようかと思います。

     

     

    ※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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