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「失われた10年」からの回復は、どういう課題を残したか?

2008/06/22 23:21
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プロフィール

村上敬亮

長年、官の立場からIT業界に携わり、政策の立案、実行をしてきた経済産業省 資源エネルギー庁の村上敬亮氏が、ITやエネルギー、様々な角度から、日本の発展のための課題や可能性について語ります。
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 6月19日付、日本経済新聞朝刊17面の「大磯小磯」というコラムに、「景気回復の性格と経済政策」と題して、わかりやすい解説が載っていたので、今回は、これをネタに話を始めてみようと思います。ITの話とは大分距離がありますが、たまには、こういうのも良いかなと。

 

1.「失われた10年」は、どう回復されたか?

 

 本コラムでは、2002年からの日本経済の緩やかな回復プロセスについて、以下のように解説をしています。

景気の底だった01年度から07年度までの実質国民総生産の平均成長率は、1.9%。うち半分以上は、輸出で稼ぎ出した(寄与度は1.0%)。・・・(中略)・・・二番目に寄与したのは、民間企業の設備投資である(同0.5%)。

これに対し、最大の需要項目である民間最終消費支出の寄与は0.7%台にとどまり、公共事業である公的固定資本形成は成長率押し下げ要因となった。消費の貢献度が成長率の半分にも満たないということは過去には見られなかった。政府の投資がマイナスとうのも初めてだ。

 全く同じ数値が引用されているわけではありませんが、同様の分析は、平成19年度の経済財政白書の第一節でも行われています。輸出の寄与の大きさは、かつての景気上昇局面で比べてみても、明らかなようです(各景気回復局面における需要項目別寄与率)。

今回の景気回復の主役は輸出と企業であり、家計は沈黙してきたことになる。・・・(中略)・・・しばしば指摘されているように賃金がほとんど上がっていないのだから当然であろう。・・・(中略)・・・貿易が活発になれば要素価格均等化法則が働く。高賃金の日本の賃金が抑えられ、中国など途上国の賃金が上昇していく。

 さらに、本コラムは、これに続いてインフレの予兆を語り、金融政策が引き締めに向かうであろうとコメントしてます。ご紹介した部分は、次のように要約できるでしょうか。

今回の景気回復プロセスは、経済のグローバル化の流れに乗ることに成功した企業の輸出に依存した景気回復である。世界経済全体の成長によって、グローバル化企業が日本経済を底堅くリードしてくれた一方、グローバル化故に国内の賃金を上げることができず、その結果、国内の消費も沈滞した。

      *      *      *

 大変良くまとまった概観だと思うのですが、個人的には、更に、この流れで追加しておきたい指摘事項があります。それは、グローバル化主導の景気回復プロセスの中で、グローバル化企業とドメスティック企業との間の二極化が更に激しく進行しているのではないか、ということです。

 収益力や業績から、経営の質や戦略的なIT利活用まで、グローバル企業とドメスティック企業との差が、どんどん開いている。綺麗に業種別傾向として出るわけではないので、統計的な把握が難しいのですが、色々な方からお話を伺えば伺うほど、グローバル市場の中で厳しい顧客リクエストに応えてどんどん業績や経営を進化させている企業と、国内のシェア争いに終始しながら、従来の業務方法や経営戦略を変えられないでいる企業と、やや御しがたく二極化しているような気がしています。組織という意味では、行政も、例外ではなく、圧倒的に後者に属しているわけですが。

 産業ベースで見ると、最近、そのポジションを変えたのが電気・電子産業です。従来であれば、自動車、電気・電子、一般機械と機械情報産業全体で輸出をリードしてきましたが、今回の回復プロセスで、電気・電子が、輸出への貢献度合いを05年前後を境に落としてしまいました。これは、同産業がグローバル型から国内型に転換したことを示唆しているととれるのではないでしょうか。

 その結果、今度は、こうした企業ベースの動きを、個人ベースのレベルに降りて見てみると何が起きているのか。企業のグローバル化の流れに乗って、グローバルに活躍できる可能性を持った人、わかりやすく言い換えれば、いざとなればいつでも海外逃亡できる環境にいる人には、実に様々な選択肢が用意される社会となる一方、国内や地域に根付こうとする人ほど、その潜在的能力の優劣にかかわらず選択肢が狭まる、割を食う。そういった別の二極化が、個人のレベルでも進んでいるような気がします。

 今回の景気回復プロセスでは、こうした二重の二極化、すなわち、第一に、企業の業績が上昇しているにもかかわらず賃金上昇が停滞したことによって生じた、企業群と個人との間の活力の二極化。第二に、企業や個人それぞれの中におけるグローバル化への適応度合いによる可能性の二極化。こうした二重の矛盾をはらんだまま、経済全体としては回復基調を維持したとも見えるのではないでしょうか。

 

2.回復のプロセスで新たに生まれた課題は何か?

 

  こうした回復プロセスの中で、日本経済は、日本と自分に対する自信を無くし始めているのではないか。加えて、世界経済全体で進んだ環境問題の深刻化やIT化の進展と絡み合って、実は、この数年来、これまでにない新たな課題が社会的に出てきているのではないか。若干思いつき的で恐縮ですが、順不同に並べてみます。

 余り整理されていませんが、論文でもない私的なコメントですので、お許しくださいませ。

 

(1) 経済のグローバル化が招いた脱・日本 (国民国家という虚像の「融解」・「差異化」)

 第一に、総論的な論点ですが、二極化が二重に重なり合ったことによって、いよいよ国民国家という虚像に対するリアリティが希薄化し始めてきたのではないかということです。文化や暮らしといった身近なところで感じれたはずの日本が、経済のグローバル化に伴い急に薄れている。

 実際、企業は上げた利潤を次なるグローバル化へと投資をしていきますから、いくらCSRが重要とは言っても、生活や公共に還元される部分は限られる。公共セクターはとにかく歳出削減で、地域や文化に思い切った投資をすることはなかなか出来ない。だから、「日本」に投資してくれる人は、どんどんいなくなる。

 大リーグで活躍するイチロー選手や、サッカーのワールドカップ、トヨタが世界市場で売上No.1を争い世界市場の話題をさらうといった部分では、「世界に認められる日本」という形で、日本を意識できる部分もある。自信を取り戻せる部分もある。

 しかし、身近な生活の中をみると、街の風景はどんどん、どこへ行っても同じ駅前と同じコンビニの風景が繰り返されるようになり、地域の特色を無くしている。地元や日本を感じさせる特色は、どんどん希釈化され、コミュニティティとともに自分に対する自信まで失い始めているような印象がある。そりゃ、実際問題、頑張っても生活水準が普通のやり方では上がらないんですから、無理もないかもしれません。

 政治・経済・文化が、一つの領域単位に綺麗に接合するという国民国家自体の嘘は、90年代にバブルがはじけた時以来、潜在的には、みんな分かっていたのかもしれませんが、ここまで何とか再構成して誤魔化してきた。にもかかわらず「日本経済」とか「日本社会」という実在が、何となく、疑わしくなってきた。実感が無くなってきた。

 その象徴が、社会保障制度の将来に対する具体的な不安であり、かつ、その深刻な事態を、もはや他人事としてシニカルに受け止めてしまう若者が多いという現実なのではないか、という気がするのです。  

 では、どうすれば日本は元気になるのか?

 

(2) 「海外」を受け入れないと「日本」が成り立たないというパラドックス

 第二の課題は、単純に「日本」を強調し、国内で弱者対策を中心に国内雇用や国内産業を鼓舞しているだけでは、何も課題は解決しないという難しさです。グローバル化と内需建て直しを同時に進めなければいけない。「海外」を受けれないと「日本」が成り立たないというパラドックスをどう解くか。

 1986年に前川レポートが話題になったときも、輸出主導型の成長が日本経済に起こした歪みが問題となりました。その点では、現在と非常に似たような状況にある。ただし、当時は、大幅な経常収支の不均衡自体が問題だった。だから、単純に、内需主導型経済への転換を目指せばよかった。

 ところが、今度は、単純に内需を刺激すればいいというわけにはいかない。そこが、単純な金融政策や財政政策だけでは答えの出せない難しい問題を提起しているのだと思います。中身が問われてしまう。

 例えば、国内の中堅・中小製造企業を見ると、実は、既に外国人エンジニアに依存している優秀企業は多数いる。しかも、そこで実力を発揮し始めた外国人が、こどもの教育問題を境に母国に帰国してしまうケースが結構で始めている。日本全体から見れば、まだマイナーな現象ですが、少子高齢化が進む中、この問題は、製造業の枠を超えて、介護その他のサービス分野を中心に、今後、ますます深刻化する。企業が外国人を使えるかどうかという問題が、先ず第一ですが、次に、企業が立地する各地域社会が、その従業員の家族と暮らしを、例えば学校で、例えば病院で、本当に受け入れられますか?ということが重要になる。日本社会は、優秀な「ガイジン」とその家族を受け入れられる社会になるのか、ならないのか。

 では、雇用吸収力のある産業へと目を向けると、国際競争力を維持しようとすれば、国内で人材や技術に磨きをかけているだけではもはや駄目。生産拠点も含めて海外展開にこそ先手を打ってこそ、そうした企業でもはじめて生き残りが可能になる。国内の雇用を強調していると、企業ごと吹っ飛んでしまう、ということが、現にリアリティを持ちつつある(一部、規制産業は別ですが。)。

 したがって、いずれの面から見ても、ただ単純に、内需の振興や格差是正といって国内需要振興策を展開しても、ドメスティック型産業の延命を図るだけで、逆効果に終わってしまう。やり方に工夫がいる。国内外でグローバル化を先取る「日本人」や「日本企業」を如何に的確に伸ばすか、そここそが問われている。しかし、そうした活動を、今、一体誰が支援できるのか。

 そもそも教育の問題といえば、それは正鵠を射ていることにはなるとは思います。そういう進取の気性と国際性を持った人材の育成こそが重要と。しかし、今の日本経済には、成果が出るまで5年も10年も待っている余裕は、とてもありそうにありません。

 日本であろうとすればこそ、脱・日本を目指す日本企業・日本人を支援しなくてはならない。あちらこちらの現場が、直ちに、そういう哲学の大変換に取り組まねばならない。そういうややこしい事態に陥っているんだと思います。

 

(3) 「非価格情報の経済」/知識経済の急速な浸透と困惑

 第三に、こうしたグローバル化・二極化の影響とは別に、圧倒的なインパクトを持って普及した、インターネットをはじめとするIT化の影響を上げなくはならないと思います。

 すなわち、マスマーケティングと大量消費の時代とは、価値作り・価値付けの方法が大きく変化しようとしている。ネットワークを通じた情報大爆発が、市場における製品やサービスの流れを変えるインパクトを持ちつつある。この流れを、どう日本が使うのか。

 従来の大衆消費社会では、研究所が開発した技術を事業部が事業化する。そこで製品化されたものをマス広告等を通じて消費者に認知せしめ、それを店頭に並べる。いわば、モノが出来た段階で、それに見合う形の広告等を展開し、バリューをつけていたわけです。

 ところが、機能的・品質的に、今すぐ欲しいと思うモノは、テレビにせよ、冷蔵庫にせよ、カメラにせよ、DVDにせよ、ほぼ行き渡ってしまった。と何が起きるのか。人は、機能的に欲しいかどうかよりも、自分にとって価値があると思えるモノを購入しようとする。いわば消費に価値があるのではなく、買うという行為を通じて何が経験できるか。買うという行為自体だったり、購入後の利用時間に自分だけの付加価値がつけられたりと、価値を感じる経験の内容は色々だと思いますが、いずれにせよ、消費そのものではなく、それを通じて得られる経験への価値が問われるようになってきてる。

 商品やサービスを事前に設計して、マス広告で認知させようと思っても、今や、みんなが同じ経験をしたいわけでもないし、経験を強制されたいわけでもない。したがって、ブランディングという役割は引き続き残るものの、従来のマス広告の中では、商品のバリュー付けを個々に行っていくのは、本当に難しくなっていく。本当に最低限の生活必需品的なものしか、消費者にはアピールしなくなる。では一体、作り手はどこで、使い手と接合すればいいのか。

 かつての近代的な価格理論では、商品やサービスが実際に流通し、市場が、その需要と供給の均衡に応じて価格を決めるものでした。僕も、学部時代には、根岸先生らによる価格理論や、レイヤード・ウオルターズというとても古いミクロ経済学の教科書を、せっせと読んでいた記憶があります。これが、議論の出発点となります。

 しかし、今実際に起きていることは、そうやって商品やサービスが実際に流れる市場とは別に、その商品やサービスの価格や評価に大きな影響力を与える非価格情報が、大きな影響力を持って独立に流通し始めているということなのではないかという気がします。

 乱暴に言えば、従来だって、「特選街」やオーディオ雑誌など、プレ評価媒体が、店頭での価格評価の前に影響力を持っていた場合はありました。女性誌によるトレンドセット現象も、同じようなモノではないかと思います。パターンとしては、これと似ていると思います。

 ですが、今や、化粧品の口コミサイトから各種商品情報サイトまで、主としてインターネットを介して、消費者には実に多様な整理された情報が提供され始めている。今や店頭だけで商品を比較し買う人は、急速に減ってきている。加えて、かつてのオーディオマニアの世界を例にとれば、確かに、店頭で衝動買いする人は、昔から高額オーディオにはほとんどいなくて、やはりレコ芸を読み、月刊Stereoを最低限眺めて、またぞろ、今は亡き長岡鉄男先生の講釈を参考にしていた気がするのですが、今は、その裾野の広がり方が凄い。分野の跨ぎ方も様々になっている。

 いわば、大量の情報を蓄積してしまい、ニーズに応じて様々な形で整理してみせられる力を持つことが、情報の持つ価値そのものを変え、市場における影響力の行使に直結していく時代になろうとしている。まあ、至極単純化していえば、「特選街」や「日経TRENDY」のような世界が、消費者の間に、またプロの間に、ネットのおかげで徹底して広まるようになったということなのではないか。そして大事なことは、消費者自身もまた、積極的にそうした非価格情報の交換の場に参加するようになってきたのではないか、ということだと思います。

      *      *      *

 このアプローチは、狭義の流通市場機能だけでは伝えきれない様々な情報を消費者に与えることが出来るという意味で、情報の非対称性を解消する一つの市場原理の進化現象だと思います。店頭だけで伝えきれない情報、築地の市場だけでは裁ききれない良質なお魚などを的確にさばく、重要な手がかかりが育ちつつある。これは素晴らしいことです。

 ただし、同時に、新たな課題も提起しています。

 第一に、この評価情報の束を有しているのが、往々にして、供給者でも需要者でもない第三者であるが故に、それが本当に信頼できる第三者なのかどうか、なかなか判別できないということです。その信頼性や社会的位置づけがきちんと得られない限り、第三者として情報を貯めても、まだまだ実物経済に影響を与えるには及ばない。

 アマゾンの本のリコメンド機能、各種オークションサイトやお取り寄せネットなど、良質なモノほど、長い時間をかけて、じっくりと情報量の蓄積と評価の積み上げに時間をかけてきていると思います。そこまで様々なユーザのリクエストに応えてやり遂げるだけの持続性と柔軟性があればいいですが、これは、従来の商品マーケティングみたいな世界とは大分違う。ねばり強く、ユーザの支持を得ながら、徐々に情報を積み上げていく。言うのは簡単なんですが、地味だけに、これが、なかなか難しい。例えば、ファイナンスも、すぐ切られる。

 第二に、評価情報の束が力を持つこと自身のネガティブな側面もあります。すなわち、その第三者が一度信頼性を勝ち得てしまえば、そして、誰も太刀打ちできないくらい先に情報を貯めきってしまえば、そのネットワークを支えるコアな特定少数の人が、非常に大きな社会的影響力を持ってしまう、ということです。

 正確には言い切れませんが、現在の原油価格のWTI市場で起きている事態も、各種原材料価格の高騰も、関係する情報を相当程度集めきったロンドンの一部のネットワークや、商品先物をリードするゴールドマンサックスをはじめとした一部の人のネットワークが、比較的に自信を持って動かしてしておられると言えるのではないでしょうか。

 これは、決して悪いことだけではありません。市場が編集できる商品情報や機能には限界がありますし、ましてやパーソナライズが進む中、それぞれの経験価値にあわせた値付けをマス市場が行うのは不可能に近い。ですから、これは、極めて自然な社会システムの進化現象だと考えるべきだと思います。

 原油価格の高騰だって、商品先物市場が読むべき需給の先読みを可能な限り必要な情報を集めて動かした結果、大きく相場が動いたのだと、言おうと思えば、必ずしも言えないことはない。今までの市場機能が、必要な情報を処理し切れていなかっただけなのだとも言える。米国政府が、今の原油価格相場は、需給ベースだと強弁するのも、全く根拠がないわけではない。

 でもやはり、釈然としない。原油価格の急激な高騰は、あきらかに仕掛けられているような側面がある気がする。納得しきれない何かが残る。こうした副作用に、どう対抗していくか。

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 第三に、副作用といえば、もう一つ。先ほども少し触れたように、こうした商品・サービスの流れとは独立した非価格情報の流通は、消費者が、商品やサービスのバリュー付けに積極的に直接参加することも可能にしています。その結果、ネットをふんだんに使って自己実現を図る人、マス的にも、カリスマ主婦的に勝ち組に収まることが可能な人が出てきました。このパワーは、相当なモノだと思います。

 他方、このネットのパワーを活かして勝ち組に収まる消費者もいれば、逆に、溢れる情報に対してリアルな世界をきちんと接続できない人もいる。例えば、まだ経済力のない若者の中には、こうした情報洪水の中でますます孤立感を深め、社会と自分に対する不満を鬱積させているケースが着実に増えてきているような気がします。山のような情報を、自らの消費行動や生活行動に巧く取り入れて勝つようできるだけの余裕と自信がある人は良いですが、そこにリアリティが持てない人から見ると、ネットという仮想空間の闇に、自分自身を追い込んでいってしまう契機にもなってくる。そう言う意味では、秋葉原の通り魔事件も、社会問題としてかなり深刻だと思います。若者には、こうしたトラップにはまる危険が増えているような気がする。

 こうした情報大爆発を日本社会がどう調理し、社会の中に取り入れていくのかが、日本経済のパワーを、実は、根底的な部分で、大きく左右しているような気がします。

 

(4) グローバル市場における経験価値経済と消費価値経済の同居

  第四に、グローバル経済の成長セクターの中でも起きている二極化も見逃せないように思います。

 先進国については、前節で説明したような、消費価値経済から経験価値経済への移行のようなことが起きている。経験価値経済の中における競争力は、非価格情報の世界で、いかに、実際に商品やサービスを流通させる事前の段階の情報戦で勝ちを収めるか。商品やサービス自身に、それを裏打ちする実態が必要なのは言うまでもありませんが、その事前の情報戦が鍵を握り始めている。

 他方、BRICsをはじめ急成長を遂げつつある途上国経済で起きていることは何か。それはまさに、先進国がこれまで経験してきたような典型的な大衆消費社会の到来。中間大衆の形成を目指し、より骨太な国内市場を作り込むことで、マス広告やマス媒体を核としたマス市場作りが、産業全体の活性化と本格的な「離陸」を呼び込む、そういう時期に来ている。単純に、「買いたい」、「欲しい」と思ってくれる消費者が、市場に大量に控えている。なんだか、W.W.ロストウとかを思い出しそうな世界ですよね。

 ある意味、今のグローバル経済は、経験価値経済と消費価値経済という全く異質な段階にある経済が併存しながら、経済全体としては大きく成長を遂げる、というやや奇妙な構図になりつつあるのだと思います。

 この状況を情報戦で勝負をしている人たちから見れば、この捩れが、実は面白い。資本市場でのマネーゲームを始め、圧倒的な物量経済と、高度な情報経済の間の神経戦みたいな部分を勝ち抜けると、実需をベースとした膨大な国富を手に出来る。欧米が必至になって考えているのは、まさにこのあたりの情報戦略ではないかという気がしています。

 ところが、日本は出遅れている。海外で上げた収益の資金環流も含め、こうした捩れを成長のバネにするための社会的な仕組み作りが出来てきない。格差が大変なのはそのとおりなのですが、だから保障すべきだとか支援すべきだとかいう、国内しか見ないレベルの議論に落ちてしまっている。情報技術戦略はあるのかもしれないけれども、情報戦略がない。インテリジェンス不足。

 

(5) 環境をキーワードとしたナショナリズムとグローバリズムの交錯

 第五に、環境問題の深刻化です。地球環境問題そのものの重要性は論を待ちません。自分も、そもそも一番最初のリオの地球サミットの時に結んだ地球温暖化防止条約の条約交渉担当もさせていただきましたし、その重要性は十分に理解しているつもりであります。

 ただし、やはり、ある種の環境問題ファッショみたいな部分があって、それが環境問題自身の重要性とは別の難しさを孕んでいるような気がします。すなわち、環境問題への対応が、実は、虚像を露呈した国民国家において、政治と経済と文化を再結合する一つのきっかけを提供しようとしていて、そこが経済のグローバル化の流れと、まだ巧く整合的にはまっていない。

 具体的には、環境問題については、為政者的視点から見ると、以下のような構成になっている。

  1. 国別目標や、国際会議におけるリーダーシップを通じて、「環境に強い国」という文化的なアイデンティティに働きかけている
  2. 環境技術で競争力強化をという経済成長のシナリオにも結びつけている
  3. 環境問題の解決に向けた政治的リーダーシップという見せ方も出来る

 いわば、国民国家という欺瞞が露呈する中、環境をキーワードに、政治と経済と文化を編集し直すという試みが、一部に行われているような気がするのです。

 それはそれで、それが環境問題解決への推進力となるのであれば、決して悪いことではないのですが、問題は、若干ナショナリズムのためにされているような部分と、コスモポリタニズム本来の視点から、国家や政治とは関係なく環境問題を心配している部分とが不整合を起こしている。ナショナリズムとコスモポリタニズムとの関係がきちんと解釈されないまま混同されている部分がある。

 そこに、この問題の、一抹の気持ち悪さが残されているような気がするのです。 

 

3.何を考えていくべきか?ITの役割は?

 

 こうした特徴ある課題を新たに抱え込んだ日本経済が、何を目指して、活動していくべきか。その詳細は、また、別途の機会にと思いますが、主題は、次のようなことではないかと思います。

「より多くの人が、『日本人』として過ごしたい、と思う国になるために」。

 ここで大事なのは、安全や、ゆとり、ではなく、刺激に溢れた生活と、挑戦する精神への応援歌ではないか。具体的には、キーワード的に、次のようなことではないかと思っています。

  1. 刺激に溢れた国を目指す(挑戦する人への支援。優秀な外国人の徹底活用)

  2. 世界の日本化を目指す。世界のブームの仕掛け人になる。

  3. 社会保障制度の充実・確保には徹底してこだわる。

  4. 中堅企業を核に産業構造を組み立て直す。社会制度も大企業依存から脱却する。

  5. 知の構成管理について、国家戦略を築く。

       *     *     *

 実は、1〜5のそれぞれについて、何を取り組むにしろ、情報を戦略的に活用することが不可欠になっていると思います。ITは、こうした動きに対し不可欠な道具です。

 ただし、重要なことは、主役は、情報そのものであり、情報を扱う人や業務・社会の仕組みです。情報戦略無き情報技術戦略には、あまり大きな意味はありません。IT産業自身のために、通信放送融合やあるべき技術開発・規制を考えるのではなく、正真正銘、社会のインフラとして、如何に様々な情報の活用に対するニーズに柔軟に応えていけるか、また、圧倒的な情報処理量に気圧されないだけのインフラと、それを巧く見せるビューを提供できるかに、日本のITの生き残る道と、日本のITに携わる人の見識が問われているような気がします。もちろん、自分にしてもです。

 こうした取組は、ITに携わるモノが直接仕掛けるのは、なかなか難しいところがあります。むしろ、ITから見ると、動きの基点はお客さんであるところのユーザです。変な風にITの側から主張を展開すると、逆に、戦略を間違えてしまう可能性の方が高い。他方、ユーザから見れば、よくよく考えて本気になってみればみるほど、実は、道具としてのITとは無関係ではいられない。そこの互いの距離感の取り方が何とも難しいところです。全く無関係でもないし、ITから始まるわけでもない。

       *      *      *

 ITを使って、こうした戦略を実践できるはずの人材も、カネも、実は日本には山ほど眠っていると僕は思っています。大企業には活用されずに眠っている人材が山のようにいますし、個人資産だって、海外に数百兆単位で金融資産が逃げ出せるほど潤沢にある。

 にもかかわらず、グローバル企業の内部資金循環以外、人もカネも、リスクを取って挑戦することへの投資に使われない。ここを、何とかして変えたい。

 今後を見ると、インフレ圧力から利上げ圧力にはまったときに財政が本当に耐えきれるか、とにかく人を批判し壊せばよいと考える向きからグローバリズムに真面目に対峙している人を如何に守るかなど、心配な点は山ほどありますが、大切なことは、やれることを、とにかくやれるところから実行していくこと。

 IT投資の場合もそうですが、時間がないと思うからこそ、とにかく、どんなに小さなことでも良いから、正しいと思う方向性に対して、とにかく具体的に成果を出せる部分が取り組み、一歩一歩成果を出して、そこを基点に改善の輪を拡げていくこと、その胆力と実行力が中長期に続くかどうかが、今問われているように思えてなりません。

 一発で大きな変革を手にしようと思っても、明治維新の時のように、日本の国内だけの動きに時間を止めておくことは出来ない。単に壊しているだけでは、日本は本当に壊れてしまう。マクロはミクロから変わる。そのことにどうコンテキストを与え、ネットワークしていくかが、日本再生の勝負どころなのではないでしょうか。

       *      *      *

 というわけで、今回はまた、iPodと何の関係もない、というか、そんなことを言っていたら、そもそもiPhoneの時代が日本にもやってきてしまいましたが、もう少し大きな枠組みから、ざくっと現状を問うようなエントリにしてみました。 

 やや違和感があったかもしれませんが、こうした問題と、情報産業の未来とは、ある距離感を持ちながらも、大変密接に議論していかなければならないのではないかと、個人的には思っています。そうした展望を、今後、少しづつ、混ぜていければ良いなと思います。

 

 

 

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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