本を読んで考えることは楽しい。「この6つのおかげでヒトは進化した」(チップ・ウォルター著/梶山あゆみ訳/早川書房)を読むと、人間の進化の素朴な疑問とさらに多くのイマジネーションを触発させてくれる。
たとえば、手の親指。実は、親指が他の4本の指と独立して自由に動く動物は人間だけなのだ。チンパンジーなどの霊長類も物を握ることができるが、親指だけを器用に動かすことはできない。ケータイでメールを親指一本で動かす技術は、4本の指と向き合う親指があってこそ、可能なのである。
多くの動物は、誰の手も借りずに出産する。ところが人間は多くの手を借りて出産し、成体になるまでの期間も長い。その原因は何か。それは人間が直立二足歩行をしだしてからだと言う。四足のままだと、産道は短くお産もそれほど危険もない。ところが、直立二足歩行を始めると体の構造上、産道が長くなってしまう。
この世に生まれてくるとき、人間ほど危険と隣りあわせで、人間ほど苦労をする動物はいない。祖先が直立二足歩行を始めたために骨盤の形が変わり、頭も大きくなった。そのため、人間の赤ん坊は回転しながら産道を通っていかなければならない。はじめは母親の腹側を向いた状態にあるが、生まれる直前に回転して横向きになる。その後、さらに90度回転し、母親の背中側を向いて生まれてくる。逆向きに回ってしまうと、産道の急カーブで赤ん坊の脊椎が後ろ側にねじれ、重い損傷を受けるおそれがある。
ゴリラやチンパンジーの出産はこれほど大変ではない。類人猿はしゃがむか四つんばいになって子供を産む。産道は人間に比べるとかなり広い。頭も小さいので、胎児は母親の腹側を向いた状態でいられるうえ、自力で産道から体を引き出そうとまでする。胎児が産道をゆっくりと落ちてくるとき、母親が手を伸ばしてうまく導いて外に出してやることも多い。(チップ・ウォルター著/梶山あゆみ訳「この6つのおかげでヒトは進化した」早川書房)
四足では、脳の大きさが限定されるが、肩の上に乗る事でより大きな脳を持つことができる。両手(前足)が自由になったので、道具を持つことができるようになった。一方、未熟な形で生まれるため、人間同士のつながりが必要になり、それが社会となった。今まで死肉をあさっていた先祖は武器を作り、積極的に狩を始めた。狩には、チームワークが必要である。身振り手振りでコミュニケーションをとっていたが、やがて洞窟に絵を描いて伝えていく。
人間と他の動物との違いは、自由にものがしゃべれることだろう。この「話す」という行為ほど、際立っているものはない。実は、のどの構造が他の動物と違っているのだ。のどの奥に咽頭と言う奇妙なのどの空洞があり、これが発達しない限り、言葉をしゃべれないのだ。
咽頭は円錐を逆さにした形をしていて、長さは11〜12センチほど。下の付け根のすぐ後ろに位置し、口と食道をつないでいる。奇妙に聞こえるかもしれないが、人間の咽頭が進化した大きな理由のひとつは、直立して走るようになったためである。私たちの祖先が後ろ足で立ち上がってからは、首が少しづつまっすぐ長くなった。やがて、肩と胴体が頭の真下にくるようになり、額の傾斜は緩やかになって、あごも四角く、頭蓋骨は丸くなっていく。こうした変化により、口の天井が上がって首が伸びた。また、これが一番重要なのだが、舌と咽頭は下に下がった。
ほかの動物にも咽頭はある。だが、人間の場合は、咽頭自体の構造はもちろん、その内部や周囲にある器官の構造が動物たちと違っている。(中略)咽頭の位置が下がったために、私たちの祖先は厄介な問題に直面する。(人間以外の)霊長類ののどの構造を見ると、鼻腔から肺までが一本の気道でまっすぐつながっていて、それとは別の管が口と胃をじかに結んでいる。頭蓋骨から始まって、首へ、そして胴体へと、二本の道路が平行線のまま続いているようなものだ。この二本は一センチたりとも同じ土地を共有することはない。
(中略)(人間は)頭蓋骨の形や首の長さが影響して、それまでは別々だった道がのどの奥で交差せざるをえなくなった。こうなると困った問題が起きる。交差しているために、口から入った食べ物や水が空気の通り道を横切るようになったのだ。窒息の誕生である。(チップ・ウォルター著/梶山あゆみ訳「この6つのおかげでヒトは進化した」早川書房)
高齢者の死因の多くががんや脳溢血などの成人病だと言われるが、実は「肺炎」も多い。高齢化して、ベッドに寝たきりになると、モノを飲み下す(嚥下)力が落ち、食べ物が肺に落ちてしまう。細菌がそこに増殖し肺炎となるのが「嚥下性肺炎」である。人間が言葉を発する条件に窒息の危険を増やすとは、まるで「人魚姫」の声と引き換えに足を付けてもらった話と似ているのは偶然なのだろうか。
人間は、言葉を作り、家族以外、地域社会以外とのコミュニケーションが増えていく。印刷の発明は、書物によって自分の頭脳の記憶を体外記憶装置に書き写すことである。書物は、場所を越え、時間を越え、直接会わなくても考えを伝えることができる。それが写真・ビデオ・パソコンとメディアが増えるにしたがって、一見すると様々な可能性が増えているように見える。「この6つのおかげでヒトは進化した」の著者はこんなことを書いている。
人間の創造力はすでに環境を大きく変えてしまい、その変化に私たち自身がついていけていない。これ以上の皮肉があるだろうか。自分たちが生まれてきた世界とは、まったく異なる世界を作り上げたのだから。地球上に住む65億の人間は、毎日数百万人単位で空とぶ機械に乗って移動し、人工衛星と光ファイバーケーブルで心と心をつなげ、一方で分子配列を変えながらもう一方で熱帯雨林を破壊し、栽培した作物を一夜のうちに何兆トンも出荷する。こういった世界は、20万年前に進化が形作った狩猟採取の遊牧民的な暮らしとは似ても似つかない。
つまり、新しいものを作るという人間の長年の習慣が、自分自身を窮地に追い込んでいる。私たちの道具は進化の一歩先を行って、世界をいっそう複雑なものに変えてきた。世界が複雑になればなるほど、すべてを支配下に置くためになおさら複雑な道具の発明が求められる。新しい道具があれば適応のスピードも上がるが、一歩前進するたびに別の何かを作らなくてはならない。そうやって作られるものはどんどん強力になっていくため、ひとつ作られるたびに世界は大きく変化し、その変化に適応するためにさらなる道具が必要になる。(チップ・ウォルター著/梶山あゆみ訳「この6つのおかげでヒトは進化した」早川書房)
私たちは、新しい道具が発明されるたびに、面白そうと飛びつく飽きっぽい消費者の集まりになってしまったと嘆いているように見える。確かに、その面もある。人間の進化は、ある意味、人間の脳を極限にまで、拡大することで、人間は何を考えるかと言う神の人体実験にも思えるのだ。しかし、サイコロを握っているのは神ではない、私たちである。そこから脱出するのも、その中に取り込まれるのも私たちが考えればよいことだ。そのために他の動物にない巨大な脳があるのだから。
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