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CNET Japan ブログ

最後の最後: Blogに書くということ

2004/04/12 10:00
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mori

マイクロソフトやマッキンゼーで情報通信分野の戦略立案に携わってきた森祐治さんが、通信・放送業界やエレクトロニクス産業に関連した時事的トピックスについて、アカデミックな視点から分析していきます(このブログの更新は2004年4月9日で終了しました。続きは<a href="http://japan.cnet.com/column/mori/">コラムによる連載</a>をご覧下さい)。
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# CNET Columnで、「森祐治・情報経済を読み解く」として再スタートしています(隔週金曜日更新)

先にアナウンスしたように、CNETの改編に伴い、Blogを卒業することになった。今回は、それにあたり最後のエントリーということで、Blogについてちょっと考えたことを記してみよう。

Blogという「メディア」

Blogそのものは「メディア」ではない。一種の配信のための、しかし配信そのものではなく制作と配信の中間のためのテクノロジーというのが正確だろう。とはいえ、非常にこなれたデータベース・パブリッシング・ツールというだけでないところが、たくさんの人がBlogを単なるテクノロジーではなく、メディアとして捉える理由になっている。すなわち、トラックバックであり、コメントの付与という機能への高い評価だ。

コメントやトラックバックは、概念的にはハイパーテキストやウェブそのもので確立されてきたものだが、これまでは「作者」と「読者」の分離が絶対という点でコンテンツやコンテクストを共有するためには超えるに越えられない一線があった。その線にBlogが橋を架けたのだ。

# これまでも静的ではあるものの、アカデミックというある程度価値を共有した世界では「引用」という作法で、Blog的な関係性を構築してきた。ただ、静的であるが故に、情報の流れは一方的であり、情報の流れそれぞれは個別に確立され、ちょうど塀で分離された状態で相互に認識できない形で存在していた。これらをある程度まで紐付け、双方化し、横から関係性のみでも抽出できるようにしたのが、デジタルとネットワークの価値だ。でも、依然として、学術論文は紙として発行され、相互に独立した形態をとり続けているのだけれど・・・

単なる一利用者であっても、オープンなリレーショナル・データベースであるBlogには参加ができる点が画期的で、それが故に「メディア」の可能性を広げる、という期待も大きかったのだろう。が、それは出版や新聞のようなマスメディア関係者からしてみると、未開拓が故に期待が生じたものじゃないか、という印象が残る。実際には、Blogと「メディア」とはあまり相性が良くないようだ。どうも、根本的に情報の非対称性、すなわち供給者優位を前提に出来上がってきた「メディア」には、Blog的なフラットな可能性の広がり方は対応が難しい。

平等な関係を前提にしたときの負荷

これまでカッコ付けした「メディア」という言葉は、マスメディアを意識した意味を含んでいるということで、区分している。そう、「マスメディアを意識した・・・」という点で、Blogは機能不全を起こす。

自然にある程度のトラフィックを稼ぐBlogには、コメント欄を勝手に広告スペースに見立ててフリーライドしてくる輩が発生してくる。それへの対策として、eメールのスパム対応よろしく、IPアドレス・ブロックが必須となるのだが、それには人手がかかり、コスト的に馬鹿にならない。

もっと根本的なのは、コメントやトラックバックという仕組みが、情報の非対称性を崩す。そもそも、それがネットらしさの根源であり、それなくしてはBlogの魅力が半減してしまうのだけれど、完全な平等関係を前提にした情報発信は、エントロピーが高いがゆえに、分かりにくいものになってしまいがちだ。

Blogのコンテンツ/作者が、読者に比して圧倒的な情報量を持った場合、すでにブランド化されており、現在の情報量の多寡や情報の質を問われないポジションを確立している場合などは、「メディア」としてのポジションをとりやすい。すなわち、コンテンツや作者そのものが読者と非対称的な優位をあらかじめ有していれば、実質的に「メディア」になりやすいし、実際、「メディア」らしく扱われる。だが、それほどに情報量的に差がない場合、あるいは判断基準が不明確な場合は、そもそも発信する側と受信する側のちょっとした違いしか差別化要因ではなくなるために、その小さな差分であっても読者が作者に逆主張しやすくなる。結果、「メディア」であっても読者の一部からの反発を直接に受けることになる。

しかし、立場の違いや、意図的/無意図的な情報の選択、そしてそもそも書くこと/読むことのスキルの有無、コンテクストなどによって、そもそも作者と読者は価値を共有できない場合も多い。その場合、ツールとしてのBlogはディスコミュニケーションを増幅するという機能を果たし、「メディア」に近い立場に立ってBlogを運営する者は、情報発信の平等性がフラットであればこそ、多数の多様な反応が一手に押し寄せることになる。

時間的な差異を活かし続けるコンテンツの発信ツールとしての生き残り

コミュニケーションのためのルールが成熟/共有されていないメディア(これはカッコつきではない)の場合、コンテンツやコンテクストを問わず、情報発信をする側、それを受け取る双方の利用者に負荷が発生することは避けられない。試行錯誤を経て、暗黙の行為の合意形成が形成されるまでには時間がかかる。

ちょうど、相手がだれだか良く分からないときに声をかけるためのコトバであった「もしもし」が、電話線の向こう側の人への第一声として妥当だと受け入れられたことや、急速に普及した携帯電話を電車などの公共交通機関で使うことは許されても、そのときは声や反応音を発しないことが定着するまでには、それなりの時間と幅広い層への普及が必要だった。Blogは、まだそのような状況には至っていないのだろう。

そのため、当事者が想定しないような反応があり、戸惑うことも多いのが現状だろう。興味のある人を経由して、徐々に普及する「知る人ぞ知る」Blogであれば、普及過程そのものフィルターがとして機能しよう。が、公に突如として現れる「メディア」で、確固として確立したオーソリティを身に纏っていない場合は、かなりの苦労を伴うものになる。まあ、それは仕方ないことなのだが。

# 形式的な平等が用意されているにも関わらず、送る側と受け取る者が役割として設定されていること自体に、一種のジェラシーを感じる人もいるようだ。

そんな状況を何らかの形で回避するためには、理論解としては、ひとつ、そもそもオーソリティを確立していない人はBlogを当面「メディア」として利用しないこと。二つ目に、かなり小さな情報の非対称性をレバレッジできる対象に書き手やコンテンツを限定し、一種の権威効果を限定的にでも発生させること、などが考えられる。後者は、典型的に海外の情報や特定の人間しか知りえない情報を広めるという、ニュース的、タイムマシン的な価値創造がすぐにでも思い付く。海外の情報となると、時間差だけではなく、言語的なギャップを生み出すので、なお良いだろう。

「メディア比較研究」という領域(アプローチ?)がある。モダリティやら、提供できる情報量やらで、一生懸命にどんなメディアが、どんなシーンでは有効かを考えるものだ。これまでは、提供する内容や、提供者の社会的背景だけで、それらを比較しようとしてきた。しかし、結局は、提供者だけではなく、媒体、そして受け手、全体のコンテクストをどう当事者が認知しているかという、全体的な構造自体をすべて取り込まなければ結論は出せないという結論に達している。もちろん、認知は社会的・文化的な変動によって変化するために、永久に一般論的な結論は出ない。

でも、現状のBlogの状況においては、「メディア」的・フューチャー的な利用よりも、メディア的・ニュース的な利用が適しているような気がしてならない。ただ、今後、このような状況がどう変化していくかは僕にも予想がつかないけれど、今後もウォッチしていきたいと思っている。

この半年間、情報経済Blogを読んでいただいてありがとうございました。次なる引越し先でもよろしくご贔屓に。

# ベランダで、春の陽射しの中、野鳥の囀りを聴きながら

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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