「ユニバーサルデザイン」という言葉を最近よく目にする
そして、今度、「ユニバーサルデザイン」の日中韓統一規格というヤツができるのだそうだ。すばらしいことのように聞こえるが、安易に何でもかんでもユニバーサルデザイン万歳という気にはなれない
優しいデザイン、とは
ユニバーサルデザインとは「年齢や身体の状況等に関わらず、誰もが安全に使いやすく、わかりやすい、暮らしづくりのために、ものや環境・サービスを設計デザイン(ユニバーサルデザインフォーラム)」のことをいうのだそうだ。デザイナーといわれる美術や造形を勉強してきた人たちの独善的な価値観(失礼!)ではなく、心理学者や人間工学者、人類学者といった多様な背景を持つ専門家の参画による、一種のムーブメントとして捕らえる分には、すばらしい
しかし、間違っていけないのは、ユニバーサルデザインは公倍数のデザインを指向しているのか、それとも公約数のデザインを指向しているのかについての理解のあり方だろう。「誰にでも優しい」ということは、虚構でしかない可能性があるからだ。そもそも「誰にでも」なんてことが言えるのか
そう、誰にとっても、というときの「誰」とは誰なのだろうか、と
誰にとっての「ユニバーサルデザイン」?
# Don Norman大先生の邦訳をもじってみました
「誰にでも」というとき対象とされるのは、むしろ大多数を占める「普通のオトナ」ではなく、それ以外の成長・加齢や障害(先天も後天も含む)といった条件を持った人たちにとって、ということを意味する
このような条件を持つ人たちにとって、通常販売されている商品では対応しきれない機能が必要なことが多い。しかし、それらの必要とされる内容は、条件自体が多様であり、同じ製品に対しても当然多様になり、その規模となると細分化されているだけに、非常に小さいことが多い
また、これらの成長・加齢・障害という条件を持った人たちが喜んで使える商品やサービスは、それ以外の人たちにとってもやさしい商品であるかどうかが問題になる
多様性を許容すること
すなわち、「誰にとってもやさしい」ことは、逆に言えば、「誰にとっても不便」になりかねない、ということがあるだろう
もちろん、人間工学的にステップの低いクルマなどは、多様な条件を持つ人びとを含む大抵の人たちにとって快適なものになる。コストを抑えつつも利用できる対象を広げる=共通部分を広げるという、最小公倍数的な発想がうまく生きた例だろう。しかし、そこまでをすべてに適用することが、効率的かどうかとなると、製品の提供者にとってはプロモーション・コピー的な意味「「やさしい」クルマです・・・)以上にはあまり価値を持たないことも多い
しかし、分かりやすい例では、認知的な事象となるとそう簡単ではない。例えば目が見えない、あるいは弱視の方にとっての「やさしい」と、それ以外の人たちにとっての「やさしい」とは、別のものをさすことが多く、一つの製品の内部に並存や共存は不可能となるだろう。すなわち、最大公約数どころか公約数すらが存在しない場合がある
別に加齢や障害といったものではなくとも、民族や歴史によって生じた文化の違いなどによっても、「やさしさ」は非常に多様になり得、ひとつの器に押し込めること自体、そもそも間違っているという価値観が生まれてきたのではないか。「多様性主義(プルーラリズム)」だ
結果、最大公約数(場合によっては、公約数すら)を抽出することは非常に困難であり、それぞれにカスタマイズし、ベストなセッティングを廉価に実現することこそが価値であるという発想が生まれた。これは、社会的弱者に対してばかりではなく、広く一般に、である。いわゆる「One to One」という発想だ
免罪符にならないムーブメントに
もちろん、公倍数的な試みを多様な製品に広げようという意味でのユニバーサルデザインは、もちろん大歓迎だ。しかし、そのとき、誰にとっても最適効率のデザインではなくなることは事実であり、ある程度それを許容すること自体が「やさしさ」なのだということを忘れてはならない
と同時に、本来必要なのは、公約数すら存在しないものの、それらを必要とする人々の需要を切り捨ててしまうことを防ぐことだ。このことを直視することなく、耳触りのいい「ユニバーサルデザイン」という言葉を免罪符に、「やさしい」商品や企業を名乗ることは避けたいものだ
# 豊作の柿をカラスがついばむのを見ながら自宅にて
※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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