「禅とオートバイ修理技術?価値の探究」のブックレビューをしてみる。
この本は5年くらい前、redhatのWebサイトにて、正確なタイトルは忘れてしまったが「夏に読む本10冊」のような形で紹介されていた。IT関係の技術者には一読の価値のある本である。
原著は30年ほど前に出版され、当時アメリカでベストセラーになった。
ソフトウェア開発方法論の本を読んでいると、海外の書籍の翻訳ものなのに「禅」とか「宮本武蔵」とかの言葉を見ることがある。彼らのバックボーンの一端に当書があるのかもしれない。
作者のロバート・M・パーシグは元々は大学で哲学の講師をしていたが、精神病のため受けた手術が元でそれ以前の記憶を失ってしまう。作中のパーシグはテクニカルライタをしており、手術以前の自分をパイドロスと呼んでいる。
作品の内容としては、作者がバイクでツーリングをする中での以下の事柄について記述されている。
中心となるテーマはツーリング中に行った思索の中の1つで、パイドロスが行った「クオリティ」の定義付けについてである。パイドロスの疑問は以下の2点の定義の不一致から始まっている。
パイドロスは”「クオリティ」とは何か”を探求するため、現代の哲学から始まりギリシャ哲学や東洋思想にまで研究を広げていき、最終的には精神を病んでしまう。
「クオリティ」論は本文を読んでもらうとして、私danjoとして気に入った部分を引用したい。
パーシグの知人が「回転肉焼き器」のマニュアルを読みながらそれを組み立てられず、テクニカルライタのパーシグに助言を求めた際の感想である。
だがこうした説明書がもたらす弊害のいくつかを指摘しながら、ドウィーズが理解に苦しんだ本当の問題はこの問題ではなかったことに気づく。説明書の展開に円滑さが欠けていたこと、それが彼を混乱させてしまったのだ。彼には一見醜く、グロテスクに見えるものは何でも理解しがたいのである。一般の工業技術者に共通する粗悪でこま切れの文体が、彼の理解を阻んでしまったのだ。
エンジニアにとって、説明が正確で簡潔であることは美徳と言える。ただし、読み手がエンジニアでなければ、それが正しくない場合もあるだろう。
「それはそうだが、こうした説明書がどういった経過を経て出来上がるのか、きみたちには分からないだろう。まずテープレコーダーを持って工場に行くわけだが、工場長は忙しくて説明している暇がない。そこで暇をもてあましているサボリ屋か、あるいはそれに類する無能なやつらのところにまわされる。結局そこで聞いたことがすべて説明書になるわけだ。隣で働いているやつに聞けば、おそらくは全然違うだいぶまともな話をしてくれるのかもしれないが、きっと忙しすぎて彼も説明してはくれないだろう」
どの程度酷いかは別にして、製品のマニュアルやWebページがないがしろにされることは良くあることである。
ソフトウェアの世界でも、ドキュメントを作ることはおろそかになりがちである。最初はちゃんとしていても、プログラムの改版にマニュアルや仕様書が追い付いていないということもある。
ドキュメントを書くのは書き手だが、読むのは読み手である。読み手がどのような人達かを良く考えないと、読まれないドキュメントになってしまうのだろう。
※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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