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Supercapitalism == スーパー

2007/11/30 06:01
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「CODE」「コモンズ」等の著書や「クリエイティブ・コモンズ」などで知られるスタンフォード大学ロースクール教授ローレンス・レッシグ氏のBlogの日本語版。著作権や特許などの知的所有権の問題やオンラインカルチャー関連のトピックスを紹介します。
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 この本を買ったのは、ラジオ(ほかでもないNPR)で十年に一度の駄作のように語られていたからだ。だが、実際に愚かだったのは評価のほうだった。Supercapitalismはきわめて聡明で経験豊富なリベラルによって書かれたじつにすばらしい著作だ。「腐敗」必読資料の最初の一冊に選んだ。

この本のおもしろさを示すヒントを挙げるなら、リベラルである著者が、法人所得税の廃止を主張し(かわりに株主が支払うべきである)、企業は従業員に健康手当を与えるべきではない(税制上の優遇は国の経済にとって大きな歪みであり、国民保健制度が1400億ドル近くの支出を要しながら非効率的で効果が薄い原因となっている)と論じていることだ。どちらの提案も理にかなっており、著者Reichがただ既存の主張を繰り返しているのではなく考えていることを告げている。そしてバークレーの教授であり、クリントン政権で労働長官を務めた著者のように経験を積んだ人物の論考こそ、われわれが必要としている改革に欠かせないものだ。

だがこの本を腐敗問題の必読図書とした理由は、著者の議論における腐敗の扱い方だ。議論の基本的な流れは、まず著者がアメリカの「黄金というわけでもなかった時代(Not Quite Golden Age)」と呼ぶ期間、すなわち前世紀の前半50年間ほど、競争への障壁により比較的力強く豊かな資本主義が実現していた時代について説明することからはじまる。この時代を定義づけるのは寡占であり、支配的企業間の協調がその帰結だった。

競争が比較的穏やかだったこの時代には、結果としていくつか興味深い現象が起きていた。(巨大)企業には社会にとって利益となること(健康保険など)を賄う余裕があり、政府はそうした企業に頼ることができた。それが可能だったのは、比較的弱い競争による暗黙の保護が、大企業に政府の望むものを与えることを可能としていたからだ。

いまや「黄金でもなかった時代」は去り、われわれはSupercapitalism -- 超資本主義の時代を迎えたとReichは主張する。企業間の競争は劇的に拡大し、われわれの半分は(われわれ一人一人の半身は、という意味)、製品やサービスの市場ではより低い価格を、投資市場ではより高い収益をますます求めるようになった時代だ。このハイパー競争は双方の市場で従来考えられなかった合理化を招き、ウォルマートと爆発的な株式市場を出現させた。製品/サービスの市場そして投資市場を生きるわれわれの半身はこの競争によって利益を受けることになる。超資本主義は超効率をもたらしている。少なくともここでは。

しかしReichの(そしてわたしの)考える問題は、われわれのもうひとつの部分、市場におけるアクターとしてではなく市民として考える部分が萎縮してしまったことだ。われわれの半分、私企業に対して妥当かつ効率的な歯止めをかけることを政府に求める部分は退化してしまった(ここでもまた、われわれひとりひとりの半身を意味している。Reichの論が傑出しているのは、われわれ全員がこの2つの部分を持っているという点にある)。政府への懐疑は深く、われわれのほとんどは理にかなった政策決定の道具としての政府という考えを捨てている。われわれはそのかわりに(ここがこの本の真に天才的な点だ)、企業に対し政府の代理として妥当な施策を考案することを求めるようになる。われわれは「企業の社会的責任」を推し、「良いこと」をおこなう企業を褒めたたえ、それが「金稼ぎ」以外のなにかであるかのように考える。Reichはこれを「道をそれた政治」と呼ぶ。政府ではなく企業に正しい政策を期待し、「企業の社会的責任」が利益の最大化以外のなにかをもたらすと空想することだ。

この部分を理解することは理解することはきわめて重要だ。だが、多くの賢明な論者たちがいまだ認めていない点でもある。これはまた、「腐敗」レクチャー アルファ版についてJon Zittrainから挙がった鋭い質問に対して、わたしが答えた内容ともかかわっている。そこで延べたように、われわれは企業というものの本質――利益を上げること――を理解し、それを愛するべきだが、しかしそれを適切な場所に置くことも忘れてはならない。たとえば虎を愛するにしても、それは子どもと一緒に遊ばせるような存在ではないことを忘れないようにだ。(質問と答えはここにある)。企業はより効率的な政府ではない。そうではなく、ますます効率的になる金儲け機械なのだ。金儲け機械のどこにもまったく問題はないどころか、社会の豊かさと成長はそれに依存しているとしても、その機械がなにか正しいことをするために利益への衝動を抑制するなどと信じるのはなにかが根本的に誤っている。かつてそうした行為をを可能にしていたクッション、比較的限られた競争は過去のものとなった。いまやGMの仕事は、これまで以上にGMの利益を求めることだ。

これを理解すれば、政府を機能させることがどれほど重要であるかも理解しないわけにはいかない。企業に(そして個人に)理にかなった制限を設け、私益の追求が公益を害さないようにするのが政府の仕事だ。政府がその仕事をしっかりとこなしていたなら、著作物から利益を得るものに対してその正の外部性を内部化させるように(われわれの政府が取り憑かれたように繰り返していることだ)、炭素の排出者に対してその負の外部性を内部化することも命じていたはずだ(われわれの政府がおこなっていないことだ)。

腐敗に対する取り組みにつながってくるのはここだ:お知らせするが(驚かないように)、政府は強い特定利益集団を利する場合(たとえば著作権)に内部化を命じるのは得意だが、特定利益を損なう場合(たとえば二酸化炭素)にはそうではない。ここで、また無数の文脈で、政府は強い利益団体の影響力に取り込まれている。Reichはカネが(間接的に)影響力を買った明白で有名な実例をいくつか挙げ、かれが「知識の腐敗」と呼ぶ腐敗した政策分析の結果もあざやかに指摘する。この見事な著作で力強く描き出されている腐敗を正すことができないかぎり、なにごとも解決することはできない。

[批判? 小さな点をひとつだけ:Reichは企業を人のように考えるべきではないと強く主張している。いわく、企業は「実体 (corporeal form)」を持たず、人々の行動の法的な擬製にすぎないのだから、法は法人ではなく人に集中すべきであり、法人に権利はなく、同時に「企業の」責任といったものも存在しない。実在するのは個人の権利であり責任だけである。

法は企業ではなく人に焦点をあわせるべきという点については、わたしも多くの場合において同意する。だがこの結論に辿り着いたのは、法人そのものよりも内部の人間に焦点をあわせたほうが現実的だからだ。とはいえ、法人を実体ととらえ責任を帰することに意味がある状況がたしかにある。Reichは民事責任の場合は多くを認めるが、企業の非実在性を重視するがゆえに、企業の刑事責任という考えを否定する。しかしわたしは、刑事責任について実在性理論はとらない。わたしの考え方は、法学界でももっともすばらしい人物のひとりである(と思う) Meir Dan-Cohenの著作から得たものだ。かれの著作はオンラインには見つからないが(これはすばらしくない)、たとえばFreedoms of Collective Speech, 79 Cal. L. Rev. 1229 (1991)を参照。]

(Amazon, B&N)で購入、あるいは借りて読もう。Robert Reichに感謝する。

[オリジナルポスト 10月15日午後03時43分]

 

 

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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