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情報開示の報告(Joho流に)

2007/06/11 12:10
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プロフィール

lessig

「CODE」「コモンズ」等の著書や「クリエイティブ・コモンズ」などで知られるスタンフォード大学ロースクール教授ローレンス・レッシグ氏のBlogの日本語版。著作権や特許などの知的所有権の問題やオンラインカルチャー関連のトピックスを紹介します。
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ほかの人々の良き実践に倣い、またわたしの立場の一貫性に疑問を持つ声に応えて、以下の情報開示の報告を公開する。

収入

わたしは法学教授だ。興味を持つ分野について教え、書くことに対して報酬を得ている。学術研究について、わたし自身以外のだれからも指図を受けることはない。特定のコースを教えることを義務づけられてはいない。権威を持つ人物から、なにか特定の主題や問題について書くように求められたり、あるいは頼まれたことさえ一度もない。わたしはこの重要な意味において自由労働者だ。

また、著作の一部からも収入を得ている。本の何冊かは商業的に出版されている。そのうち三冊は電子本のかたちで無償配布もされている(近いうちにすべての本をそうしたいと思っている)。いくつかの雑誌にも寄稿していたことがある。しかしこれらすべてにおいて、扱う主題について契約することはあったとしても、内容についての契約をしたことは一度としてない。

まれにではあるが、専門分野にかかわることがらについて助言をして報酬を受けることもある。その場合、わたしは下に述べるNC原則に従って行動する。

また、ときには講演について謝礼をもらうこともある。その場合、主題については契約をするが(たとえば講演がイノベーションについてのものか、著作権またはプライバシーについてなのか等)、内容については約束しない。謝礼のほか、現地までの旅費についての補助も受けとっている。

非営利団体での仕事については報酬を得ていない。

技術

わたしはMovable Typeの有料ユーザだ。Marc Perkelにはとても良い条件でホスティングを提供してもらっている。もし仮に評価のための製品が送られてきた場合、それについては書かないと決めている。

ビジネス上の結びつき

定期契約のクライアントはいない。多くの非営利団体の理事を務めている。
EFFFSFPLOSFreePressPublicKnowledge、そしてCreative Commonsなど。

営利組織の役員には就いていない。理事や顧問を務める対価としてストックオプションを受けとることはない。

Non-Corruption (NC, 非買収)原則

そう発言するように金を貰ったことではなく、自分の信じるところを口にできる職業に就いているのは得がたい特権だ。この自由はかつて専門職にとっては一般的な規範だった。現在ではますますそうではなくなりつつある。法律家はかつて、信じるところを口にできる職業倫理を持っていた。いまや「ビジネス上の衝突」という概念、つまり顧客や潜在的顧客の商業的利害との衝突が多くの法律家を沈黙させている。医師もまた、特定の医療方法について発言することのできない地位に雇われている(たとえば、Rust v. Sullivanを参照)。「シンクタンク」の研究者たちは、どの問題を追及するか判断する際、まず資金提供者がだれであるかを考える。そして最後に、もっとも明らかなものとして、政治家にもおなじことがいえる。単に地位を維持するだけでも絶え間なく資金集めを続けなければならないことから、かれらはどんな発言が(真実であってもなくても)資金獲得に響くか察知する第六感を発達させている。

おそらくひとつの例外(政治家)を除き、だれも専門家たちにこの妥協を強いているわけではない。(政治家を例外としたのは、現在のシステムであるかぎり、この妥協なしにどうやって政治の世界で生き延びられるのか想像できないからだ。考えられないほどの大金持ちでもないかぎり)。われわれはみずからの従う価値観を自分自身で選択する。そして、信じるところを口にできる自由こそ、わたしにとってこの職業のもっとも重要な部分であるがゆえに、わたしは表明する意見と金銭とのいかなるつながりも制限するため、守るべき原則をいくつか選び出した。

わたしはこの原則を"non-corruption"(非腐敗)原則と呼んでいる。なぜなら、すくなくとも専門家にとって、この原則に反する行動はある意味で腐敗であると考えているからだ。もちろん、直接的な意味で腐敗といっているわけではない。地球温暖化について研究する科学者が、エクソンに対して「5万ドルいただければ地球温暖化を批判する記事を書きますよ」と提案するのが間違いであることはだれもが同意するだろう。ここで話そうとしている「腐敗」はそのような種類ではない。

いわんとしているのは、もっと直接的でない意味での「腐敗」だ。政治家に対しては、われわれは誰でもその直接的でない意味を理解している。だが法律家や医師、科学者、教授についての場合、この問題は充分に意識されていない。

友人たちの一部を間接的に「腐敗している」と呼ぶ危険を冒すことになろうとも、わたしはこの認識をもっと広めたいと思っている。この問題についての規範は明確ではない。わたしはそれが変わることを望んでいる。だがそれまでは、われわれは異なる考え方の人々を断罪すべきではないだろう。そうではなく、対話すべきだ。この文章はそのきっかけとなることを意図している。

では、NC原則について:

簡単にいえば:「誰の提灯も持ちません」。

もっと詳しいバージョンは:「直接、または間接を問わず、そうするように金を貰った意見や立場をポリシーとして勧めることはしない」。

詳しいほうはより詳しく定義する必要があるが、ほとんどはその動機から理解できるだろう:わたしの考える「腐敗」とは、金銭的な見返りによって、特定の意見や立場をとらせようとする隠然とした圧力のことを指す。「隠然」とは、当人ですらその影響を意識していないことさえあるという意味だ。(大多数の政治家についてあてはまるのではないかと思う)。だからこのルールは、そのような明確でない力も避けるようにデザインされている。

つまり、「ポリシーとして意見や立場を勧めることはしない」とは:これは弁護士としての仕事と、なんらかの立場を唱道する場合との区別を意味している。わたし個人は報酬のために法廷弁護士をすることはない。だが弁護士がクライアントのために発言するとき、それがクライアントの立場だということは誰でも理解しているだろう。わたしが目標とする腐敗とは、法律家や学者が顧客の代弁ではなく、真実を発言している(と受けとられる)場合だ。また、「勧める」とはあらゆる公開の意見表明の場を指す。たとえばop-ed(論説)や証言、レクチャーなど。

「直接」とは:これは分かりやすい部分だ。「直接」とは現金または同等の対価、あるいは研究への援助、または本来受けることがなかった資金援助などを指す。

「または間接」とは:これは一般に難しい線引きとみなされている。だが、わたしにとっての境界線は明確だ。わたしの考えでは、わたしが責任を持つ団体が、容易に特定できる利害主体から相当の利益を得た場合、それは「間接的に」報酬を受けたといえるだろう。
たとえば、わたしは所属するロースクールのために資金集めはしない。またわたしの地位も指揮するセンターも、わたしが資金を調達するしないとは無関係だ。さらに、センターを支えるという学長(dean)の確約もどんな資金獲得にも左右されない。Sullivan学長はわたしをリクルートしたときにこういった:「予算集めはわたしの問題。あなたのは教授として仕事をすること」。

こうしたことから、もしあなたがスタンフォードに多額の資金を提供したとしても、間接的にわたしに便宜を図ったということにはならない(とわたしは考える)。なぜなら、資金を提供したことでわたしの生活をいささかも変えたことにはならないからだ。(どころか、そうした贈り物につきもののいろいろな骨折りを考えれば、おそらくわたしの人生を少々難しくすることになるだろう)。

クリエイティブ・コモンズはまた別の問題だ。クリエイティブ・コモンズという、わたしがCEOとして責任を持つ団体への多額の援助は、NC原則に従えば、援助した団体と直接関係する「立場をポリシーとして勧める」ことを制限する。

これまでのところ、非営利団体として受けている補助金を超える「相当の」援助は二度あった。いずれの場合も、わたしはそれらの援助者を利するような立場を「勧める」ことはしない。援助とは独立してその立場が正しいと考えていたとしても。そうした相手を手助けしないとか、助言をしないわけではない。ただそうした援助を受けたあとは、公の場でかれらの立場について語らないというだけだ。

ここで「相当の」という基準についてどうかという意見があることは承知している。なぜ「多寡にかかわらず」ではなく「相当」なのか? 額にかかわらずというほうが、少なくとも究極的には正しいのかもしれない。だがいまの考えでは、先にあげた二つ以外の援助はCCの予算規模からすればかなり少ないため、CCでのわたしの仕事をほぼまったく変えることがない。

情報開示だけで充分では?

この原則はあまりにも厳しすぎるという人もいるだろう。こうした文脈でほとんどの場合に用いられるもっとシンプルな規則は、単に事実関係の開示を義務づけるだけだ。わたしは開示原則には与しない。わたしの考えでは、開示だけではあまりに弱すぎる。もっとも分かりやすい証拠は米国連邦議会だ。だれでも、どこがだれに資金を与えているか知っている。または知ることができる。それでも、わたしがここで問題としているような腐敗はまったく防げていない。もっと一般的にいえば、もし誰もがこの腐敗ゲームに参加するなら、開示のルールではわたしが問題にするような腐敗を止める効果がなくなるということだ。よって、わたしの考えでは、「この研究はエクソンの出資によっておこなわれました」というだけでは充分ではない。わたしの考えでは、そもそもエクソンは政策をめぐる論争で自社を利するような学術研究に直接資金を提供するべきではない。

(現実には、線引きの難しい問題が発生する。シカゴ時代、教授陣は夏期の研究補助金を与えられていた。決定するのは学長だ。援助者を喜ばせようと、教授たちは「この研究にはXXXからの補助金が使われた」と書いたかもしれない。だが研究内容に対して資金が与えられることは決してないし、ほとんどの場合、だれが「出資」していたのかを発見するのは研究を仕上げてからだ。この種の行為を問題にしようというつもりはまったくない。この場合、研究者が獲得する予算はXXXからの助成金と独立している)。

NC原則とは何でないか

NC原則とは金銭に関するものであり、それ以外のどのような影響力にもかかわらない。だからあなたがわたしに感じのいい態度をとれば、もちろんわたしもそうするだろう。敬意を尽くされればこちらも敬意を返す。お世辞をいわれれば、わたしからも返したくなる誘惑に勝てるかは怪しい。もしあなたがわたしの信じる目標を推すなら、わたしもおそらくあなたの努力を助けるだろう。こうしたかたちの影響力はNC原則の範疇ではない。どれも金銭を含んでいないからだ。わたしはNC原則を、専門家の仕事から金銭の影響を取り除くためだけのものとして考えている。いま挙げたような他の影響力まで除外するような規則を採用する必要はないとわたしは考えている。

褒めることや、たとえばリベラルであることと金銭はなぜ違うのか? よい質問だ。明らかな理由はいくつもある。(たとえば、そうしたほかの影響も除外する「腐敗原則」を実施するのがどれほど難しいか考えてみよう。「Xを推薦することはできない。なぜならわたしとおなじく民主党支持だから」「Yに有利となる証言はできない。以前わたしを褒めたことがあるから」。逆インセンティブという話をすれば……)。

いつの日か、こうする理由についてもっと深く説明できる時間が与えられればよいと願っている。だがいまのところは、ただわたしの守る原則の範囲をあきらかにしておきたいだけだ:この原則は、あるひとつの種類の影響をわたしの(そしてできれば同僚たちの)仕事から退けることを目的としている。われわれ法学者は(わたしの意見では)、証言を売って歩こうかと心配しないですむだけの充分な収入を得ている。

以前わたしが書いた、見方によってはある誰かに有利に働くような文章について、友人の一人が失望を伝えてきたことがある。金銭が関わらないかぎり、わたしはそうした種類の好意には諸手をあげて賛成だ。われわれは意見をおなじくする人々にはいつでもよくすべきだと思っている。とりわけ、この国の議論のわれわれの側についてはそうだ。少なくとあちら側程度には、お互いに支えあうコミュニティを育てなければならない。

それで、この約束には結局どんな意味があるのか?

もしわたしがこの原則に従っていると信じるとしても、それでもわたしがリベラルゆえに偏向しているとか、愚かなゆえに間違っているとか、すぐお世辞にのるゆえに過剰な親切を返しているとか、態度の悪い人々を罰したいがゆえに素っ気ない態度をとっているとか見なすことはできる。NC原則が約束するのは、わたしが発言しているのはそう言うように金を受けとったからではないということだけだ。

実際の適用

わたしはこの原則を長年のあいだ守っている。だからここでなにか新しい方針を発表したいわけではない。この原則については同意も反対もあるだろう。厳格すぎると考えるかもしれないし、緩すぎると思うかもしれない。現在のところ、この原則は法学者のあいだで用いられているどんな基準よりもはるかに厳格だ。多くの人が、あまりにも厳しすぎると考えることは無理もない。

だが厳しいと思うにしろ緩いと思うにしろ、あなたもこの原則を考えてみることを薦めたい。NC原則に従い、善意と洞察に対しては、少なくとも善意で応えたいとわたしは思っている。議論の仕方が高校時代で進歩を止めてしまった人々のことは相手にしない。たしかにいえることはただ、これは今後もぜひ考えを進めてゆきたい主題だから、これについて助言するために金銭は受けとらないということだけだ(もちろん、世間にはわたしの助言を求めて何億ドルも提供するつもりの人々が無数にいるのだから、これはまったく崇高な自己犠牲だ)。

最後に、またくり返しておけば、わたしはこの原則を他人を断罪するための道具として提示したわけではない。われわれがこの主題について対話することが必要だと信じているからだ。

[オリジナルポスト 6月4日午後11時53分]
※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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