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The Matrix, その2

2007/01/19 06:00
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lessig

「CODE」「コモンズ」等の著書や「クリエイティブ・コモンズ」などで知られるスタンフォード大学ロースクール教授ローレンス・レッシグ氏のBlogの日本語版。著作権や特許などの知的所有権の問題やオンラインカルチャー関連のトピックスを紹介します。
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わお。金曜にひとつエントリを書き、週末を家族と過ごして戻ってみれば、月曜にはすばらしく賑わったWikiができている。マトリクスも追加された。

続きの部分にコメントの一部への返答を書いておく。

全般に:繰り返すが、これらの「区別」はカテゴリーではなく、連続した性質について述べたものだ。それぞれについて程度を示す尺度があるべきかもしれない。完全なRWから完全なROまで、純粋な「営利」から純粋な「共有」までというように。実例がもっと集まりしだい、どのようにすべきか考えてみるつもりだ。

寄せてくれたさまざまな例に重ねて感謝する。遠慮なくもっと追加してほしい。

コメントより:

Tomは「もっと幅広い観点まで拡大」すべきと提案した。冒頭に書いたようにまったく同感だ。表がもっと埋まりしだいそうするつもりだ。

Sergeはフリーソフトウェアの技術ドキュメンテーションはリードオンリーではないかと書いた。そうは思わない:そうしたマニュアル類はすべて(コピーレフトの)FDLでライセンスされており、編集・改変の権利が保証されている。

Crosbieは前回のポストを「分裂をつくりだす」ものと読み、なぜ「営利を“共有”から除外しようとするのか」と問うた。繰り返しになるが、わたしもなにも「除外」しようとはしていない。現にあるものを記述しようと試みている。そしてハイブリッド型サイトはまさに共有を奨励することでビジネスをおこなおうとするサイトだ。

Surfer Dudeはこの表があまりお気に召さない(「これまであんたが書いた中で一番ばかばかしい屑」)(わたしの他の著作についてはあまり知らないようだ)。しかしばかばかしさはかれの頭脳にも感染したらしく、その後に書かれている例はわたしのお気に入りのひとつだ。共用トイレの個室は現実世界でのコミュニティを示すものだし、バーガーキングのメニューという例はまるごとひとつのカテゴリーにつながる――たとえばセキュリティ開示の例を考えよう。

JSTKatzへ:三つの例すべてに同意する。最終的には第三の例がもっとも生産的であることも正しいと考えるが、ポルノにはまじめにとりあわないという規範も深刻な制限だ。

timsamoff:ミックスの価値をみごとに示す例だ。現在われわれが説教とよぶものをおこなう人々のうち、どの程度がそれをRWな形で提供しているか分かればすばらしいのだが。
Bill Blissは核となる区別がどのようなものか把握しようとしている。わたし自身もだ。また、利用者が生みだす(Audience-generated)コンテンツ 対 サイトが用意するコンテンツという分け方を提案している。それもまた有用な区別だと思うが、いまわたしが注目しているものからはやや外れている。わたしが興味を持っているのは、サイト側が用意したコンテンツであるか否かに関わらず、実際にユーザに対してどのような自由が認められているかという点だ。とはいえ、Klirは良い例だ。また、典型的な営利/ROサイトもRW要素を利用しているという指摘もそのとおり。たとえばiTunesのように。また別の例にはAmazonもある。利用者レビューがなかったとしても、誰が何を好んでいるかというデータの集積はユーザにとって非常に大きな価値として帰ってくる。

Karenは図書館がROなのは残念だという。わたしはそう思わない。わたしは図書館のRO的性質が好きだ。とはいえ、それがすべてであるべきとも思わない。

Tim Hurleyはハイブリッドのこれ以上ない例を挙げている:Threadless.com。ユーザに求められることは比較的少ないが、より多くが要求されるようになった場合、より多くの「権利」が必要になるのだろうか?

RyanとOwenは話を複雑にしたがっている。それも必要かもしれない。集まった例を分類しながら考えてみるつもりだ。

michael houghtonは、各種の掲示板をRW-非営利として挙げた。確かに正しいだろうが、RW-営利にもいくつかよい例がある。わたしはLondon Review of Booksにそのひとつ、マイクロソフトの場合について書いた

Daveの挙げたDSL reportsは、ひとつの形から始まり別のかたちに変化してゆくサイトの例として非常に有用だ。これもまた考えてみたい。

Jim Downeyはプロジェクト・グーテンベルクを挙げているが、話を逆に捕らえている。Gutenbergはわれわれのほとんどよりもずっと古くからあり、当時の技術によって制約を受けていたが、技術の進歩につれて提供する自由の幅も拡大してきた。とはいえ提供するコンテンツの(パブリックドメインであるという)性質上、ユーザはなんでも望み通りに利用することができる。LIIもまた、わたしが思いついてしかるべきだった完璧な例だ。どちらの例についても、寄付を募ることで営利になるとは思わない。

Andy Oramは、O'Reillyの取り組みが(ここでも)来るべき未来を告げていると論じる。wikicontentは未見だったが、これこそわたしが理解したいと思っている種類の実験だ。O'Reillyは公共に向けた取り組みという部分をはっきりと打ちだしている。企業にとって、コミュニティの参加を得るために利益を放棄することが必須でなければよいとわたしは願っている(そうした取り組みをする企業はずっと少なくなってしまうだろうから)。だが、これこそ見極めたい指標でもある――コミュニティを味方につけるには、どの程度を手放さねばならないのか。

JanetとCrosbieはCCについて、いまの問題とは直接関わらないものの重要なやりとりをしている。完全な答えは留保するが、Janetへの部分的な答えは次のようになる。

(1) 権利移転の終了ツールはたしかにコモンズに関わるものだとわたしは考えている。古い契約に縛られているが、ネットに開放されるべき科学・学術的著作は大量に存在する。それを可能にするためのツールだ。

(2) コモンズへのある種の貢献を奨励したり容易にすることが、総体としてコモンズを強めることになるか逆に弱めることになるのかについては、非常に難しい(もしかしたら解答不可能な)議論がある。簡単な例はどちらの場合にも考えられる:たとえば並列戦略(営利と非営利)のおかげで、他の方法では無縁だった音楽がコモンズに加わったとすれば、それは良いことだ。だがもし並列戦略によって、以前は純粋にオープンアクセスで提供されていたであろう学術論文が商用として販売されるという場合、それは困ったことだ。わたしの考えでは、戦略はクリエータの選択肢を奪うような枠組みを強いるのではなく、クリエータに向けた提案をすることにある。そして重要な点は(とても誤解されやすいため、もっと周到な別の記事のために残しておくべきなのだが)、フリーカルチャーやフリーソフトウェア運動にかかわる人々は、すべてのクリエータが、作品をただ無償で手放すという選択肢のある経済システムに生きてはいないという事実を認識すべきということだ。米国の法学教授に向かって、論文はすべてCC-BYで発表すべきというのは簡単だ。だが、だからといってすべての写真家も作品をみなCC-BYで発表すべきと考えるのはまったくばかげている。

nihongogakuseiへ:すばらしいサイトだ。見たことがなかった。ありがとう。

Dustin Kick:.Macも思いついてしかるべき例だった。こちらもありがとう。

[オリジナルポスト 1月8日午前6時52分]
※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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