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moral rightsの議論について

2005/03/06 00:43
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「CODE」「コモンズ」等の著書や「クリエイティブ・コモンズ」などで知られるスタンフォード大学ロースクール教授ローレンス・レッシグ氏のBlogの日本語版。著作権や特許などの知的所有権の問題やオンラインカルチャー関連のトピックスを紹介します。
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Bill Thompsonクリエイティブ・コモンズ批判的な友を自称している。わたしの考え方では、人が必要とするのはそのような友だけだ。しかし、われわれはそもそも争う理由がないところで争っているのではないかと思わざるを得ない(これもまた、最良の友人同士にありがちなことだ)。

Billはmoral rights [日本では“著作者人格権”にあたる]を信奉しており、クリエイティブ・コモンズはそうでないと思っている。より正確には、集団としてのクリエイティブ・コモンズあるいは個人としての私が、moral rightsを“考慮”も“理解”もしていないと考えている。曰く、レッシグとCCは著作権(copyright)を「単なる経済上の問題」と捉えているが、それは「米国の覇権主義」(革命後の抹消語リストに追加のこと)であり、容認できない・してはならないというのがBillの主張だ。

米国を強く批判することで強く批判されてきた人間として(国外でさえ!)、米国の「覇権主義」を除くことには大賛成だ。だがここには全く単純な誤解がある。この点をもっと明確にするのはわれわれCCの課題だ。

クリエイティブ・コモンズは、アーティストや創作者にフリーな著作権ライセンス(使用許諾条件)を提供する。ライセンスの目的は、アーティストやクリエータが著作権を持つそれぞれの作品について、付加したいと望むさまざまな自由を表示できるようにすることだ。そうした「自由」は著作権法が著作権者に与える独占的権利であって、著作権者の意志で手放すことが法的に認められている。クリエイティブ・コモンズの仕組みは自動的に働くように、契約も当事者同士の交渉も要らないようにデザインされている。このライセンスは単に、「わたしが著作権を保有するこの作品を、通常は著作権侵害となるかたちで利用しても、この条件の範囲内であれば訴えません。」というものだ(法律はあらゆるものを見苦しくしてしまうが、要はこういうことだ)。

しかしMoral rights――これは「欧州の」概念というわけではなく、実際には米英にも欧州にも共通して存在してきた(われわれの法的伝統では“authr's right”(著作者の権利)と呼ばれ、重要な文献にはLyman Ray PattersonのCopyright in Historical Perspectiveがある)――は、そうした簡単な操作を認めない。moral rightsを保護する司法制度の多くでは、作品がどのように、どんな文脈で使われるのか関知しないまま、自動的にmoral rightsを手放すことはできないとされている。よってそのような制度の下では、クリエイティブ・コモンズ的なメカニズムは機能しない。別の言い方をすれば、CCの仕組みではmoral rightsを含む合意を有効にすることができない。クリエイティブ・コモンズは金槌だが、これはガラス吹きなのだ。

こうした司法制度へのわれわれの対応はシンプルだ:moral rightsに対して効力があるとはいっさい主張しない。そうした権利はただあるがままに残される。われわれの道具では効果的に扱うことができないためだ。すなわち、われわれがmoral rightsに関わらないのは「理解していない」からではなく、与えられた法環境のもとでは、われわれの道具では何もできないと正確に理解しているからなのだ。

よって、「クリエイティブ・コモンズは、copyrightとmoral rightsからなる領域に対して、ただひとつの手立てしかないと考えている」という言い方は、物事を逆に捉えているように思われる。「moral rightsの問題」を「解決」しないといってクリエイティブ・コモンズを批判する人々こそ、問題に対処するにはただひとつの道具しかないと考えているのだ。われわれは自分たちの道具が金槌であること、そして必要とされているのはガラス吹きの道具であると進んで認めている。だからもしあなたの目的がmoral rightsを扱う、尊重する、あるいは理解することであるならば、われわれの道具でそれをしようとはどうか考えないでほしい。

とはいえ、これはmoral rightsを保護するすべての司法制度に当てはまるわけではない。法のありようは国ごとに異なるため、一部の国では、作者がcopyrightとmoral rightsの双方について許諾を与えることを可能とするライセンスを作成できた。だが強いmoral rights制度の下では、われわれの作りだした道具では、そうしたシンプルな解決は不可能だ。

このことからも、なぜわれわれがmoral rightsを「却下している」と受けとられるのか分からない(アスピリンはガンを治癒できないからといってガンを却下しているだろうか?)。そしてわれわれの道具が、少なくとも一部の制度の下ではmoral rightsに手出しできないと認めるなら、フォーカスを絞ることがなぜmoral rightsを「問題と思っていない」ことになるのだろう。

また、わたしはかつてmoral rightsを否定する発言をした憶えがない。確かに、moral rightsは作者の自由を制限する――少なくとも、それを手放すシンプルな方法を求めている作者にとっては。奴隷制の禁止が労働者の自由を制限するのと同じことだ。しかしこの明白な事実を口にしたからといって、わたしが奴隷制を支持しているとは思わないだろう。わたしはさまざまな文脈からの質問に対して、moral rightsの伝統は出版社の権力に対する重要なチェック機構として存在してきたと答えている。わが国の伝統からは忘れられてしまったものだ。しかしどの発言もmoral rightsを批判するものではないし、それを保護する国々に法律の書き換えを勧めるものでもない。

クリエイティブ・コモンズが、少なくとも一部の地域では、moral rightsに関与しないのは事実だ。またガンも治さなければ貧困も終わらせない。曖昧であればはっきりさせておこう:だからといって、われわれがガンや貧困を「問題と思っていない」わけではない。そうした問題を「却下」しているわけでもない。われわれはただ、誰もがそうすべきように、自分たちの広める解決策にはできることしかできないと弁えているのだ。

最後に、moral rightsと区別した著作権(copyright)をわたしが「単なる経済上の問題」と捉えているというBillの主張について。恐らくわたしとの会話からこう判断したのだろう。Billは(同輩たちと違って)注意深いジャーナリストだが、わたしは自分の主張をもっと明確にしておくべきだった。かれの表現はわたしの意図していたことと異なるからだ。確かにわたしは、“copyright”は「単なる経済上の問題」だと考えている――copyrightによって保護される権利は、そもそも経済上の理由から保護されてきたという意味だ。だがこれも、その他の権利の存在を否定するものではない。この国の建国時には存在していた多様な「著作者の権利」は前掲のPattersonに見ることができる。それまでもが「経済上のもの」だったと主張するわけではない。

しかしcopyrightは経済上の権利だったと信じているし、copyrightが重要なのは主として経済上の理由からだとも信じている。だがこれこそ、経済的利益を目的としないクリエータや、作品へのコントロールは経済的成功に必須ではないと考える多数のクリエータたちのために、よりシンプルなcopyrightを作ろうと考えた理由だ。

フリーな法がわれわれの作った道具だ。iChatがアプリケーション・レイヤーでするように、法律のレイヤーで人々が何かを実現できるようにする。だがiChatが万人向けではないように――少なくとも、あらゆる用途に向いているわけではないように、CCも決して万能の道具ではない。わたしはBrittneyにCCで曲を公開するようには勧めはしない。Gilberto Gilには勧めるだろう。何をしたいのかわたしに伝えてくれれば、目的に合う道具を用意しているかどうかお答えしよう(もちろんレトリックなので、実際に私に問い合わせないでほしい。証言や裁判や授業それに家族がいて、返答にかかる時間を要求している)。

[オリジナルポスト 2月26日午前8時34分]
※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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