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Manesの『Free Culture』評

2004/03/25 12:37
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「CODE」「コモンズ」等の著書や「クリエイティブ・コモンズ」などで知られるスタンフォード大学ロースクール教授ローレンス・レッシグ氏のBlogの日本語版。著作権や特許などの知的所有権の問題やオンラインカルチャー関連のトピックスを紹介します。
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Free Cultureの刊行は来週に迫り、書評も始まっている。前にも書いた通り、それらの書評は本のウェブサイトに集められる予定だ。肯定的なものも否定的なものも、出来の良いものも悪いものも。また、適切と思えるものについてはこの場所でもコメントしようと思う。(何が「適切と思える」か決定するアルゴリズムについてはまだよく分からない。書評が肯定的/否定的のどちらか、かつ出来が良い/悪いのどちらかであるなら、返答することが「適切」なのは、否定的かつ出来が悪い書評であると考えている。まあ、いずれはっきりするだろう。少なくとも、好意的な書評をここで繰り返すつもりはない)。

条件を満たす最初のものは、ForbesのStephen Manesによるこの実に非凡な書評だ。

『Free Culture』の執筆にあたってわたしが最も恐れたのは、この本の主張があまりに明白すぎるということだった。法律が根本的に変化したことは、誰の目にも明らかだとわたしは思っていた。それが創造のプロセスに過去のどんな時代よりも強い規制を及ぼすことも、その規制が多くの領域でひどく非効率的であることも、誰の目にも明らかだとわたしは思っていた。そして、現在の法律が過去からの根本的な変化を体現していることについても、まったく自明のことだと思っていた。以前にも述べたように、わたしは1975年の著作権法ならば何の不満も持っていない。事実、わたしがこの本のなかで説明した著作権法の改正案が実現したとしても、結果は1975年の著作権法よりもまだ制約的なものだ。

だがManesの書評は、少なくとも、この本の主題が自明ではなかったことを示している。Manesはこの本を“Freeloader Culture[ただ乗り文化:知的財産窃盗マニフェスト]”と呼んでいる――だがこの実に愉快な書評は、彼の主張と実際のわれわれの歴史のあいだの齟齬をうまく隠せていない。アメリカは213年の歴史のうち190年間にわたって「ただ乗り文化」だったと彼は主張しているのだろうか? アメリカの知財政策は今日になって初めて道徳を備えたと?

わたしが一番気に入っている箇所はここだ:

まず彼[レッシグ]は、「ウォルト・ディズニー流の創造性――我々を取りまく文化を基に、なにか別のものを創造する表現と才能」を褒め称える。だがそれはエサに過ぎず、彼は本の大部分を、無制限のサンプリングや言うところの「共有」を含む、既存の作品をそのまま再利用する特定の「創造性」にフリーパスを与えるべしという主張に費やす。これは気違い沙汰だ。ディズニーは「白雪姫」のようなパブリックドメインの素材も再制作したが、ピーターパンのような著作権付き作品には使用料を払っている。

確かに、わたしは「ウォルト・ディズニー流の創造性」を称賛している。だがMr. Manesは「パブリックドメインの再制作」の規模を過小申告することで、かの偉大なる巨匠に大変な失礼を働いている。これがその「再制作」のリストだ:
『白雪姫』(1937)
『ファンタジア』(1940)
『ピノキオ』(1940)
『ダンボ』(1941)
『バンビ』(1942)
『南部の唄』(1946)
『シンデレラ』(1950)
『不思議の国のアリス』(1951)
『ロビン・フッド』(1952)
『ピーターパン』(1953)
『Lady and the Tramp[わんわん物語]』(1955)
『眠れる森の美女』(1959)
『101匹わんちゃん』(1961)
『The Sword in the Stone[王様の剣]』(1963)
『ジャングル・ブック』(1967)
――早く忘れたほうがいい最近の例『トレジャー・プラネット』(2003)は挙げるまでもない。
ディズニーがピーターパンの物語に使用料を支払ったのは事実だが、株主たちが会社に問いただすべきはその理由だ。米国では、ピーターパン物語の主要部分はパブリックドメインとなっている――現在の著作権者がいかに恫喝しようとも。あきらかに著作権の切れた作品に対しても使用料を支払わねばならないという考え方こそ、この本が疑問を投じようとしている極端主義なのだ。

この実に良く書けている(いや本当に)書評には、他にもキラリと光る部分がある。例えば:

「われわれの歴史のなかで、現在ほど“文化”が“所有”されていた時代は決してなかった」とレッシグは叫ぶ。ハァ? 1920,30,40年代には、ほんの数社が映画・ラジオ・レコード業界を完全に支配していたし、コピー機もテープレコーダもなかった。

うむ、まあ、その通りだ。そうした分野は当時から(現在も)寡占産業だった。だが「映画・ラジオ・レコード業界」の一極化と「文化」が「所有物」であることとは別の問題だ。文化を所有しているという主張は著作権法の主張だ。そして1920,30,40年代に著作権法の規制の影響を受けていた「文化」の割合は、現在に比べればごく僅かであったことにはまったく疑問の余地がない。当時著作権を得るためには登録と更新が必要だった。最初に認められる保護期間は28年間であり、更新も含めた平均保護期間は30年だった。今日では登録にかかわらず自動的に著作権が発生し、企業名義ならば95年、個人ならば寿命+70年の全期間にわたって持続する。よって今日のわれわれの文化は、1920,30,40年代よりもさらに「所有」されている。まさしく――すでに述べたように――過去のどの時代よりも。

あるいはまた:

現在の著作権法に存在する「フェアユース」の例外――レッシグをここに引用することを可能にしているような――は非常に広い範囲を持っていて、カット・アンド・ペーストする人間にとって法的に明らかに許されないほとんど唯一のことは、対象の大部分を直接コピーすることだけだ。その場合でも、教室、図書館、保存または個人使用などの数多くの例外が認められている。そのうえ、ウェブは著作権のある素材に合法的にリンクすることを許している。

法律屋以外の人間が「フェアユース」の美点について語るのを聞けて感激だ。この文章が伝えるただひとつのことは、評者は最後まで本を読んでさえいないということだ。アメリカでいう「フェアユース」とは弁護士を雇う権利だ。なんとすばらしい。そして実際には、「ウェブ」は著作権のある素材に「合法的にリンクする」ことを認めていない。今日のアメリカにおけるリンクの自由について2600に聞いてみるといい。

Manesは、この論争にはまだまだ多くのことが語られる必要があると明らかにした。わたしの本も、それを果たすことはできないのかもしれない(結局、説得に失敗するのが私の得意技なのだ)。だが、著作権法の歴史に関してこれほど自信を持つ技術ライターの手になる書評がこのようなものだという事実は、なさねばならないことがいかに多く残されているかを示している。

[オリジナルポスト 3月20日午後6時26分]
※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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