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カトー$財$団の提言

2004/01/20 11:46
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「CODE」「コモンズ」等の著書や「クリエイティブ・コモンズ」などで知られるスタンフォード大学ロースクール教授ローレンス・レッシグ氏のBlogの日本語版。著作権や特許などの知的所有権の問題やオンラインカルチャー関連のトピックスを紹介します。
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「知的に無能であるか不誠実であるかのどちらか」。Cato InstituteのAdam Thiererによる、Dean候補のインターネット政策を批判する記事について、Howard Rheingoldはこう書いている。Thiererの属するコミュニティ――ワシントンD.C.――の慣習から、わたしはこれを“無能”とは呼ばない。またD.C.の基準からすれば、特に“不誠実”でもないだろう。人は暮らす環境に属するものだが、Cato Instituteはロビイストの国にあるのだ。

Thiererはこの記事の中で“サイバースペースに対するDean-Copps-Lessigの見方”を“コレクティビスト”――インターネットを“1つの巨大な集合的リソース”と見なす――と呼び、Deanの“インターネット政策への方針”から以下の部分を抜き出して批判している。

インターネットは誰にも所有されていない。それはこの国の市民としての、またこの惑星の住民としてのわれわれ全員のものだ。……インターネットの価値はそのオープン性にあり、……イノベーションの市場として、様々な考えやアイデアの公共の広場として、…民主主義の場として、インターネットのオープン性は奨励されるべきだ。

テクノロジーについてなにも知らない人間が、これを読んでどう誤解するかは想像に難くない。技術的な知識をまったく持たない人々は、“インターネット”を“コンピュータの集まり”か、なお悪く“ある1つのコンピュータ”だと思っている。だから彼らにとっては、その“コンピュータ”を誰も私有していないとはまるで共産主義のように聞こえることだろう。

だが“インターネット”とはマシンの集合のことではない。インターネットとは、それらのマシンを誰ひとり――発明者たちさえ――予想もしなかったような形で結ぶことを可能にしたプロトコル群のことを指す。技術的には、つまりワシントンD.C.以外の場所では「正しくは」という意味だが、それらのプロトコル群は“所有”されてはいない。そのかわり、WWWのプロトコルを含むTCP/IPなどのプロトコル群はパブリックドメインにおかれている。Cato Instituteからすればこれは間違っているのだろう。これらのプロトコルがプロプライエタリであるほうが、例えば電話会社の所有物であったほうがよりよいネットワークが実現するというのが彼らの考えだ。もちろん、電話網を所有する企業が「ネットワークの価値はオープン性にある」などと考えたことは一度もない。事実、電話会社がコントロールできないイノベーションや競争に対して自らをオープンにしたことは一度もない――規制によってそれを強いられるまでは(すくなくとも電話に関してはそうだ)。

Deanの“方針”は3つの“行動計画”から導かれている、とこの記事は主張する。つまり:

(1)インフラストラクチャー:Deanらは、電話・ケーブル・ブロードバンド高速ネットワークに対する一律の強いオープンアクセス規制、構造的分割、または公有化さえ意図している。彼らはまたインターネットをひとつの集団的所有物として、“利用差別の禁止”などの規制を通じた“民主的ルール”の下に置こうとしている。

(2)無線帯域:帯域のほとんどを、ごく限られた排他的所有権のみが認められるひとつの共有地(コモンズ)として扱おうとしている。

(3)知的財産:知的財産権を弱め、フェアユースの権利とパブリックドメインを大幅に拡大する。

では順番に見てゆくとしよう。

(1) インフラストラクチャー

わたしはDean候補のキャンペーンを代表して話しているわけではない。インターネットのオープン性のうえに築かれたDeanキャンペーン(ワシントンの人間があれほど敵意を持つ理由だ)には敬意を払い、賞賛しているが、かれらがすでに完全なインターネット政策を決定しているとは思えない。引用されているのは、その名の通り“方針”に過ぎない。

その方針は正しいものだ。だれも本気でインターネットを“集合的ルール”の下に置こうとは考えていない――ブッシュ政権は例外だが(愛国者法などの法律のことだ)。大多数が論じているのは、インターネット本来の中立性が損なわれる場合において、政府にはそれを調停する役割があるということだ。アダム・スミスが示して以来、テクノロジーの歴史では中立のプラットフォームが爆発的なイノベーションを産んできた。そしてインターネットプロトコルがもつエンドツーエンドの性質による中立性は、インターネットの繁栄に決定的な役割を果たしてきた。

Cato Instituteはインターネット本来のエンドツーエンド的中立性を弱点ととらえている。政府も同様だ。インテリジェンスが終端にあれば、インターネットのふるまいを規制することは難しい。インテリジェンスが終端にあれば、過去の遺物であるビジネスモデルを守ることは難しい。だが政府や過去の遺物に依存した企業がインターネットのエンドツーエンド性を損なおうとすることは理解できる(予測さえした)ものの、なぜリバータリアンまでがそれに同調するのかわたしには分からない。資金提供者にではなく、政治的信条に従うリバータリアンならばエンドツーエンドのネットワークの価値を受け入れるだろう。Cato Instituteはそうではない。

(2)無線帯域:「(Dean(そしてCopps, Lessig)は)、無線帯域のほとんどを、ごく限られた排他的所有権のみが認められるひとつの共有地[コモンズ]として扱おうとしている」

たしかにわたしはより多くの帯域を非-排他的な利用へ解放することを支持している。すべてが非-排他的であるべきだとはいわない:たとえば『コモンズ』[Future of Ideas]では、わたしは「所有権」制と「コモンズ」制のあいだの競争について、どちらがよりよく機能するかによって政府の政策を選択することについて書いている。

だがYochai Benklerが論ずるように、この問題は“コモンズ”という言葉がすぐに別のものと混同されてしまう例だ。この議論はあまりにも簡単に“市場vs共産主義”の論争にすり替わってしまう。だが問題はマーケット対コミュニズムではない。ただひとつの(本当の)対立は、われわれが必要としているのは2つの市場なのか、それともひとつなのかということだ。

“コモンズ”の側は、ひとつの市場――あるいはデバイスの市場――だけで充分だと信じている。つまり、企業が帯域のよりよい活用の仕方で競争するなら、あとは市場がうまくやってくれるだろうという考え方だ。そうしたデバイスの驚くほどの浸透と、帯域の多大な活用を実現できる。(例えばwi-fi)。

“市場”の側は、帯域を活用するデバイスの市場だけでは不十分だと信じている。デバイスの市場に加えて、帯域のそのものの市場――特定帯域の所有者が、他者が同意なくその帯域を利用することを禁止する権利を持つシステム――もまた必要だという考えだ。かれらの信じるところによれば、帯域を財産権として所有可能なものにして初めて、それをコモンズとして扱う場合よりも多くの繁栄を手に入れることができる。(例えば3G[第三世代移動体通信ネットワーク])。

この議論を最終的に解決するには、われわれは帯域を最適に利用する技術について今よりもずっと多くを知る必要がある。どちらが正しいのか、確かなことはだれにもいえない。だが、わたし自身はより多くの規制ではなく、より少ない規制の側に傾いている。空中を伝わる無線の帯域に財産権を設定するのはひとつの規制だ。わたしはそれが“規制”だから良いと考えるわけではないし、それが“財産権”だから悪だとも思わない。重要なのはラベルではなく実質だ。すくなくともD.C.以外の場所では。

Catoは明らかに、FCC[連邦通信委員会]が帯域を“市場”とする規制を実現できなければ損失だと信じている。かれらはより多くの“ミドルマン”を――つまりイノベータやテクノロジストが製品を実際に市場に送りだすまでにより多くの経費を必要とすることを望んでいる。あるいは、少なくともCatoの支援者たち(たとえばMurdoch)はそれを望んでいる。ワシントンでこれまで成功を収めてきた強力なロビー活動をもってすれば、この市場を“導く”有利な地位を得ることができるからだ。

だが、あなた自身の考えを試してもらいたい:新聞に対する市場を考えてみよう。仕組みとしては、「新聞を出版する権利」に対する財産権というものを想像することができる。この権利は政府によってオークションにかけられる。こうなれば、新聞を発行しようとする人々は新聞同士の市場だけではなく、新聞を出版する権利の市場でも競争しなければならなくなる。このような“市場”がよりよい効率をもたらすという理屈は理解できるが、それが正しいとは思えない。わたしはひとつの市場――新聞同士が競う市場――だけで充分と考える。その上にもうひとつの市場を付け加えて得られるものは何もない。

それは話が別だ、というだろうか? 新聞を発行する“財産権”は憲法に違反するんじゃないかと。まさにその通り――そして帯域規制についても同様だ。Benklerとわたしが5年前に論じていた(要登録)ように。

(3)知的財産

この記事でThiererが書いたのは、正確には「知的財産権を弱め、フェアユースの権利とパブリックドメインを大幅に拡大する」だ。

まずはっきりさせておくが、これらの意見をHoward Deanと結びつける根拠はどこにも、まったく存在しない。Deanも、あるいは民主党のだれも、知的財産に関してD.C.を支配する極端主義に疑問を投げかけることはできていない。また“Dean-Copps-Lessig”三人組のひとりとしてあげられているMichael Coppsも、このような“ラディカルな”方針を採る発言をしたことはないはずだ。だからこの「三人組」のなかでは、これはわたしに向けられた発言だと推測する。

もちろんわたしはよりバランスの取れた“知的財産”を全面的に支持している。ワシントンのロビイストたちはわれわれの伝統を完全にねじ曲げてしまった。かれら自身の主張のばかばかしさも認識できないほどだ。(MPAA[米映画協会]のFritz Attawayは最近、著作権の期間をたとえば200年にしてもやはり「限られた期間」だと論じていた。それなら「愛国者法」は愛国心の発露だ。)

たしかにわたしは著作権の期間を限定し、登録制を復活させ、フェアユースを守るためにより明確で強い線を引くことを、そして著作権のある作品がふたたびパブリックドメインへと移行できるようにしなければならないと信じている。

わたしはこれらすべてを信じるが、Cato Instituteも以前は同意見だった(!)はずだ。かれらは著作権の期間をさらに20年延長したソニー・ボノ法に反対する声明を提出していたし、“知的財産”への制限を、“知的財産”はそれに経済的な意義がある場合のみ拡大されるべきだと主張していた。

残念ながらそれも過去の話だ。いまのCatoは支援者に吹き込まれた愚劣の極みをただオウム返しにしているに過ぎない。彼らもまたIP最大化主義者のバンドワゴンに乗っている。パブリックドメイン支持者からの資金提供が十分ではなかったのだろう。

ワシントンを志向するリバータリアンには何か奇怪なところがある。まるでAyn Randがソビエト連邦に戻ろうとしているようなものだ。だがCato Instituteのこの動きには、ワシントン政治的な腐敗もある。John Edwardsはロビイストによる選挙資金提供の禁止を雄弁に主張した。それをもっと拡大すべきではないだろうか?

さらにこの問題については、Johoのよく書かれたエントリを参照。

[オリジナルポスト 1月19日午前10時44分]
※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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