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規制緩和に歯止めを

2003/08/23 00:00
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「CODE」「コモンズ」等の著書や「クリエイティブ・コモンズ」などで知られるスタンフォード大学ロースクール教授ローレンス・レッシグ氏のBlogの日本語版。著作権や特許などの知的所有権の問題やオンラインカルチャー関連のトピックスを紹介します。
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 アメリカとカナダで推定5000万の人々が電力を絶たれ、一部では水さえ利用できない状況におかれている今、私たちは公益事業に対する規制緩和の愚かしさについて再考しないわけにはいかない。公益事業を認可する権利は人々に帰属している。われわれは適切な価格と信頼できるサービスの見返りとして、公益事業体がそのビジネスから利益を上げる認可を与えている。1992年、民主党主導の議会で、投資家に所有された電力会社のグループが彼らに大きな権限を与えるエネルギー政策法を成立させた。この法律は電力産業を再編成し、競争に拍車をかけるはずだった。

 電力会社はこの規制緩和を競争を制限する一連の合併を行うために利用した。利益を増やすために、数千人の解雇を含む経費削減が行われた。解雇された従業員のなかには、発電、送電、配電システムの整備責任者たちもいた。投資家に所有されたいくつもの電力会社は、みずからの設備の整備や修理への投資を取りやめ、サービスの質を向上させるために資金を投じる替わりに、株価を上昇させるために経費を圧縮した。

 第一の例に挙げられるのはオハイオ州のFirstEnergy社だ。FirstEnergy社は、原子力発電所を所有するいくつかの電力会社の合併によって生まれた。それらの原子力発電所の多くは運転を停止しているか役に立っておらず、結果として巨額の債務をもたらしていた。
 FirstEnergy社の前身、The Cleveland Electric Illuminating Company (CEI)は、1950年代や60年代には安定した優良株だった――原子力に投資し始めるまでは。FirstEnergy社はオハイオ州Port Clintonにある、多くの問題を抱えたデイビス・ベッセ原子力発電所の運転をつづけようと失敗を重ねた。現在、デイビス・ベッセ原発は運転を停止してしばらくが経つ。FirstEnergy社と政府の規制委員会は発電所の運転を適切に管理することに失敗し、ホウ酸による腐食で劣化した原子炉容器上部からの放射能漏れの危険を招いた。

 中西部の数百万の人々と五大湖地域の水源すべてが、FirstEnergy社の意図的な怠慢、不適切な整備、後に発覚した反応炉劣化の隠蔽工作によって危険にさらされた。そのうえ規制当局は、合衆国でもっとも人口の多い地域のひとつが惨事の淵におかれたにも関わらず、FirstEnergy社の財務状況から、劣化した原子炉の運転続行を認めた。規制当局は公衆の安全よりもFirstEnergy社の利益を優先したことになる。

 政府と産業界の邪悪な結びつきの見本というものがあるとすれば、これこそがそれだ。もし投資家が所有する公益事業に対して必要な政府による規制の失敗例というものがあるとすれば、FirstEnergy社に対する監督失敗がそれにあたる。なぜなら、AP通信、CNN、ABC Newsが報じるところによれば、5000万人に影響を及ぼしたこの大停電はFirstEnergy社のシステムから始まったからだ。

 FirstEnergy社、そして電力事業独占の問題とは、かれこれ30年以上のつきあいになる。私の経歴の初期、1970年代には、クリーブランド市が市営発電会社Muny Lightを運営する能力を弱めようと、FirstEnergy社の前身CEIが力を尽くすのを見た。CEIは市が所有するMuny Lightを廃業に追い込むためにあらゆる手を使った。Muny Lightは全市の3分の1の地域でCEIと競合し、市の機関に20から30%の割安料金を適用していた。Muny Lightはまた76の施設とクリーブランドの何千もの街灯に電力を供給し、納税者の金を毎年数百万ドル節約していた。
 1970年代、CEIは原子力発電所の操業許可を申請した。手続きは独占禁止法に基づく調査を伴い、CEIがMuny Lightを妨害するために無数の連邦独占禁止法違反を犯していたことが発覚した。原子力規制委員会の安全委員および認可審査委員による綿密な査察の結果、CEIがクリーブランド市議会にロビー活動を行い、Muny Light債の取引に特別の条件を設けさせ、発電機の修理にあてる費用の調達を妨害していたことがわかった。この修理の遅れにより、Muny Lightは他の電力会社からの電力購入を余儀なくされた。このときMuny Lightが電力を購入できる唯一の電力会社となっていたCEIはMuny Lightに対する急激な料金値上げを行い、時には3倍の価格を要求した。結果として、Muny Lightは資金を失い始めた。CEIはみずからが作りだしたMuny Lightの運営および財務上の弱点を公営システムの非現実性の証拠として挙げ、クリーブランドの人々に信頼できる電力を供給する唯一の方法は、市がCEIに対して電力設備を売却することだと主張した。
 独占禁止法に基づく調査の結果には、Muny Lightが困難を迎えた際、CEIに緊急の送電を要請したときの出来事が記されている。送電はMuny Lightのシステムに停電を起こさせるように行われ、CEIはこれを市営電力会社を運営する市の無能力の更なる証拠として利用した。
 この時期を通じて、CEIから多額の広告収入を得ていたクリーブランドのメディアは、市が電力システムを保有することに反対するキャンペーンを続けた。連邦政府がCEIの行動を調査し始めたときには、CEIの経営陣が市議会に現れ、Muny Lightを買収する意図は全くないと宣言した――舞台裏ではMuny Lightを排除するために手を尽くしていたにも関わらず。

 1976年、数年に及ぶ妨害工作の末、CEIはついにクリーブランド市長と議会にMuny Light売却への同意を取りつけた。これによりCEIはクリーブランド地域の電力供給を独占し、評価額の大幅な上昇から利益を得て、急速に膨れ上がる原子力発電所建設のコストを支払うことが可能になる。
 私はこのとき、クリーブランド市裁判所の事務官に選出されていた。私はMuny Lightを救うための市民キャンペーンを組織した。人々からは売却を差し止めるための多くの署名が集まった。私は市長選に立候補し、Muny Lightの売却中止を公約に掲げた。私は当選し、売却をキャンセルした。CEIは直ちに訴訟を起こし、大幅に料金を引き上げていた期間に市が購入した電力に対して1500万ドルの支払いを要求した。
 前任の市長はMuny Lightの売却によってこの費用を調達し、同時に独占禁止法違反による損害としてCEIに3億2500万ドルの賠償を求めた裁判を取り下げるつもりだった。私の市長就任はMuny Light売却を阻止しただけでなく、独占禁止法裁判を続行させることにもなった。CEIは連邦裁判所から市の設備の差し押さえ命令を引き出し、市営の電力サービスを不安定にすることで、売却を支持する政治的圧力を生み出そうと窮余の策を講じた。私は迅速に行動し、市の支出削減によって電力代を支払った。
 Muny Lightの問題が正念場を迎えたのは1978年の12月15日、オハイオ州最大の銀行であり、当時全米33位の規模であったクリーブランド・トラストが、市が所有する電力設備の売却に私が同意しない限り、前市長の時代に行われた1500万ドルの借り入れを直ちに全額返済してもらうと告げたときだった。

 その日、その時には、クリーブランドに2紙存在した新聞の双方、街のほとんど全てのラジオおよびテレビ局、ビジネスコミュニティ全体、あらゆる銀行、両方の政党、いくつかの労働組合、そして市議会の多数派がMuny Lightの売却を支持していた。私がしなければならなかったのは、それを認める法案に署名することだけだった。そうすれば市の電力設備は売却され、資金を借り入れた市のクレジットは“守られる”ことになる。クリーブランド・トラスト銀行の会長は、Muny Lightの売却に応じることを条件に、市に対する5000万ドルの新たな融資さえ約束した。

 私にとって重要だったのは、人々が電力に対していくら支払うことになるのだろうかということだった。私はクリーブランド市街の中心部で、7人兄弟の長男として育った。両親は一度も家を持ったことはなく、私が17歳になる頃までには、車の中を含めて21の場所を移り住んでいた。両親と子供5人が、イーストサイドにある3部屋のアパートで暮らしていたときのことを憶えている。両親はよくキッチンで、あの古い白エナメルのテーブルを囲んで座っていた――テーブルの表面が欠けると、黒い下地が見えた。父と母が小銭を数えているとき、私にはあのエナメルのテーブルがカチカチと鳴る音が聞こえた。

 クリーブランド・トラスト銀行の会長と共に会議室にいたとき、私は両親が小銭を数えていたときのことを思い出していた。私には小銭があのエナメルのテーブルにあたって立てるカチカチという音が聞こえていた。
 そして、私はノーと言い、クリーブランド・トラストはその日の真夜中をもって市の債務不履行を宣言した。後に明らかになったのは、クリーブランド・トラスト銀行とCEIが4人の理事を共有していたことだった。クリーブランド・トラストはCEIの銀行だった。他の銀行と共に、クリーブランド・トラストはCEI株の大きな割合を所有しており、他にも無数の共通する利害を持っていた。わたしは債務不履行を引き起こした責任を問われ、1979年の市長選に敗北した。クリーブランド・トラストはAmeriTrustと名前を変え、新市長はMuny LightをCleveland Public Powerと改名した。

 1993年になって、クリーブランド市はMuny Lightの拡張を宣言した。アメリカのあらゆる公営発電システムのなかでも最大の拡張だった。わたしは公職を退いて久しかった。実際、債務不履行を起こした後、ほとんどの政治アナリストは私の政治生命は終わったと考えた。わたしは他の政治家たちから、政治家としてのキャリアがかかっていたというのに、なぜ電力システムの売却に応じなかったのかと何度も尋ねられた。私は次の選挙よりも大切なものが存在することを信じている。

 Cleveland Plain Dealer紙の記者がMuny Lightの拡張を知らせるために訪ねてきたとき、私はマリブのビーチでイルカが遊ぶのを眺めていた。私にとって、クリーブランドはどこよりも遠い場所だった。市庁舎を去ってからというもの、私はクリーブランドで職に就くことができなかった。わたしは故郷を失い、結婚生活も破綻してしまった。それでも、大した不満は感じなかった――というのも、中部太平洋岸州における組織犯罪を調査していた上院の小委員会によれば、私は単なる幸運によって、暗殺の計画を生き延びていたらしいのだ。陽光に輝く太平洋の波を眺めるのは心安らぐものだった。
 訪ねてきた記者に、市営電力システムを救った私の決断がなければ、今回の拡張も起こらなかったと人々が語っていることを知らされたときも、私が思ったのは「それはよかった。」だった。
 クリーブランドの人々はMuny Light売却を拒否した私の決断は正しかったといい、私に戻ってくるようにといった。私はそうした。1994年の上院選に「because he was right」というスローガンで立候補した。選挙戦に使われたロゴマークの私の名前の部分には、小さな電球の光がデザインされていた。私はその選挙で共和党の現職議員を破って当選した数少ない民主党の候補者のひとりだった。

 2年後、私は共和党の現職議員を破って当選した数少ない民主党の下院議員のひとりとなった。
ロゴマークの私の名前の背景には電球と“Light up Congress”[議会に明かりを]という言葉が書かれた。

 いま私は合衆国大統領となるために出馬し、アメリカに光をもたらしたいと願っている。まず取りかかる課題は、公衆の利益を無視した規制緩和のプロセスに歯止めをかけることとなるだろう。

デニス・J・クシニッチ

アイオワ州ダベンポートへ向かう途上にて

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[オリジナルポスト 8月17日午前10時20分]
※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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