ぼくは、長瀬弘樹という作曲家の大ファンだ。
今では中島美嘉やKinKi Kidsに曲を提供する売れっ子となった彼だが、そこにいたるまでの道は決して平坦なものではなかった。
ミュージシャンを志していた彼のことを知ったのは10年以上前、同じ大学に通う学生だった頃である。
その頃、ぼくは音楽にどっぷり浸かっていた。京都の河原町にあるヴァージン・レコードに通い詰め、なけなしの金をはたいて抱えきれないほどのCDをジャケ買いし、むさぼるようにして聞いて過ごした。バンドをいくつも掛け持ちしたり、曲を書いたりして過ごした。将来は好きな音楽で仕事ができたらいいなぁ、などとつい妄想してしまう、ごくありきたりの夢見がちな学生だった。いま手元のiTunesに入っている1万曲をこえるライブラリには、あの頃のビタースイートな思い出がたくさん詰まっている。
当時のバンド漬けの生活の周囲にはすごい人たちがたくさんいた。高宮マキや平野啓一郎のように、後に表現の世界で名前を知られることになった人たちもいた。そんな中に彼、長瀬弘樹もいたのである。
最初の出会いがどこでどうだったかは、あまり記憶にない。ただ、暗いライブスペースのなかでスポットライトを浴び、少年のような甘いマスクに透き通ったハイ・トーン・ヴォイスで歌う彼をみたとき、純粋な感銘に加えて、持たざる者が持てる者にどうしても抱いてしまう、あの嫉妬のようなものが少し混ざった不思議な気持ちになったことを覚えている。
その後、村上春樹が好きだというそのブンガク青年とは音楽の趣味が似通っていることがわかり、少しづつ仲良くなっていった。特に、ジェイ・グレイドンやクリストファー・クロス、佐藤竹善のようなミーハーなAORが大好きだと公言できる相手は当時でもあまりいなかったので、貴重な友人になった。レコーディング機材が所狭しと詰め込まれたアパートに遊びに行っては、スピーカーから流れる色彩豊かなサウンドに耳を傾けながら明け方まで語り合った。音楽のこと、恋愛のこと、将来のこと。
ぼくはすでにその頃には夢から醒めていて、その分野での自分の才能のなさに白旗をあげていた。彼のように、プレイヤー、あるいはクリエイターとしてすごい人たちがいたおかげで、夢と呼ぶにも値しないただの空疎な願望をキッパリとあきらめることができたのだ。だから、「プロのミュージシャンになりたいんだ」という彼のことを、純粋に一人の熱心なファンとして応援していた。彼の作った音楽は、いつもすぐにダビングしてもらい、何度も何度も繰り返し聴いた。なかでも異色のハードプログレ長編大作「The End Of The Innocence」は一番のお気に入りだった。
どんな日々も永遠ではない。その後、ぼくは一足先に大学を卒業し、就職のために京都を離れ、東京に出て行くことになった。
そして東京での暮らしにも少し慣れてきたある日、こんなことがあった。新しくできた仲間たちと渋谷で深夜まで飲み、バカ騒ぎをやったあと、みんなが終電で帰ってしまい、ふと一人だけ取り残されてしまったのだ。
そのとき、こみ上げるようにして襲ってきた心細い感じをいまでもよく覚えている。
夜の渋谷に渦巻くギラギラした思惑はいよいよ勢いを増し、自分の居場所はどこにもないように感じた。そういう不安を吹っ切るようにして人混みの中に足早にもぐり込み、自分の存在をもみ消そうとした。しかし、そうした試みはますます寂しさを強調するばかりだった。欲望の視線は自分を素通りして交差していた。自分では消え去ろうとしていたつもりだったのに、実はもとから存在していなかった。
ふとMDウォークマンを持っていたことに気がつき、まるでこれが自分を守ってくれるA.T.フィールドだといわんばかりに無我夢中でイヤフォンを耳に押し込み、再生ボタンを押した。そのときに流れてきたのが長瀬の「Tokyo Tower」というメロウな曲だった。
さまざまな思いがどっと去来した。
なぜか唐突に、とめどなく涙がでてきた。
いくら手で拭っても、どうしようもなく流れ続けた。
その後、どうやって夜を明かしたのかはよく覚えていない。ただひたすら行くあてもなくさまよい、ときには座り込み、行き交う人たちを眺めてやりすごしていたように思う。やがて高層の建造物から漏れてくる朝日を浴びながら、少しひんやりした空気に身を震わせつつ東急の駅まで歩いたことだけは鮮明に覚えている。
長瀬自身がそっくりな経験をしたことは、のちに彼が原宿の小さなハコでライブをやるようになったときのトークで知ったのだが、ともかく、このようにして彼の音楽はぼくの人生に欠かせない存在となっていった。
その後、彼がインディーズのレーベルから名宮和希という名義でデビューし、ソロアルバム「Dawn」をリリースすると聞いたときには飛び上がって喜び、真っ先に買いに走った。HMVのサイトでは全員がレビューで満点をつけている、捨て曲なしの超優良アルバムだ。世田谷区のアパートの近くにあったコンビニで店内放送から彼の歌声が聞こえてきたときには、まだ関西にいた彼に興奮気味のメールを書いて報告したものだった。
ほどなくして彼も拠点を東京に移し、ライブ活動を開始するようになっていた。もちろん必ず観に行った。ぼくの結婚パーティでは何曲かを弾き語りで歌ってくれた。以下はそのときの映像である。
「ツキノミチ」(所々映像が乱れて申し訳ない)
「砂漠の雪」(同じく音楽業界で活躍している友人の粟津彰とのデュエット・バージョン)
今聞いてもまったく色あせていない名曲だ。
しかし、売れなかった。
いつの時代にも繰り返してきたように、街中にはくだらない音楽が大音量で流れているのに、彼のアルバムは静かに廃盤になり、いつしかライブのお知らせも届かなくなっていった。
なぜだろう。かならずしも音楽的な尺度で良いものが売れるとは限らない、そんな理屈は誰でも知っている。しかし、知っているからといって納得できるわけではない。やり場のない無力感にうちのめされたが、それでもぼくは長瀬の曲を聴き続けた。
しばらく便りのなかったある日、ふと、アーティストから作曲家に転向することにしたよ、という一通のメールが届いた。歌い手としての道を断念したことをとても残念に思ったけど、彼が作曲したという竹内めぐみのバラードがテレビで流れているのに気がついてハッとした。そうか、彼は自分の道を投げ出したんじゃなくて、新たな道に全力で向かっているんだ。
その後、ぼくは新事業の立ち上げのためアメリカに引っ越した。日本に出張があるときには彼をつかまえて、サシで飲みに行った。実生活ではお互いにもがいてばかりの二人だったけど、夢だけは昔と変わらず無邪気に話せるのが嬉しかった。
そしてとうとう、彼のほうに転機がおとずれた。2007年に入って、日本テレビ系ドラマ「ハケンの品格」の主題歌にもなった中島美嘉の「見えない星」を書いたのである。ここから先、現在にいたるまで怒濤の勢いで作品をものしていく。そのあたりの詳しいことは彼のブログを見てもらうのがいい。
結局のところ、ぼくは価値観の多くを共有する彼の生き様のなかに自己を投影しようとしていたのかも知れない。自分ができなかったことを、彼の才能に託して代理闘争をしたがっていたかのような。でも、もうそういうのは卒業しなきゃ。これからは自らの足で立ち、どれほど違う分野であっても、世の中に存在を認めてもらえるような仕事をするしかないんだ。そう素直に思うことができるようになった。
先週の長瀬の誕生日、日本時間の明け方にチャットをした。いつも通り、たわいのないグダグダな会話をしつつも、色々なことを教わった。彼はいつの間にか大きく成長していた。誰かの役に立つかもしれないと思い、ここにログを一部抜粋して締めくくりとしようと思う。
(略)
長瀬「僕はもう、大衆芸術家の道をひたはしってるからw。でも、こびるのとはちょっと違うんだよね。また考え方が変わった」
江島「ほほう。そこちょっと聞きたいな」
長瀬「ああ、そう?」
江島「うん、いま大衆向けのものを目指してる者としてw」
長瀬「作曲家になりたての頃は、とにかく「大衆にうける」ってことだけしか考えてなかった。逆にいえば、大衆をばかにしてたんだよね」
江島「なるほど」
長瀬「大衆というものを勝手に自分で設定して、ここで落としとけばいいやってやってて、でも、それが全然決まらなかった。3年くらいやってて、大衆なんてものを勝手に作ることは間違ってるんじゃないかと思い始めた」
江島「何がきっかけでそう思うようになったの?」
長瀬「それはね、うーん、なんかね、ほんとに自分の心からでてるものじゃないなと実感するようになったの。これやればうけるだろうとか、そう思った時点で自分の価値観の範疇をでてるんだよね」
江島「自分でふと気づいたって感じ?」
長瀬「そう。大衆というものを客体化しちゃいけないということかな」
江島「なるほどなるほど」
長瀬「自分が大衆にならなきゃいけないということだね、簡単にいえば。大衆としての自分が、大衆として、「大衆的」じゃないものを作る、そう思うようになってから徐々に認められるようになった」
(略)
長瀬「自分が大衆になって、今まででは売れそうもないものを作るというニッチの理論だね、誰もが言ってることだけど」
江島「死ぬほど大変だなw。自分は大衆の多様性のなかの一つの可能性でしかないのに、大衆を設定せず、大衆にうけるものを作らなければならないというw」
長瀬「そうそう。ケンだってそうでしょ。「大衆」はいない。大衆は死んだ」
江島「カントかw」
長瀬「ニーチェでもある」
江島「あ、まちがえたニーチェだw」
(略)
江島「曲を書き出す頃にはアーティストが決まってるもんなの?」
長瀬「僕はアーティストを決めて、それ用につくるね」
江島「そうなんだ」
長瀬「それも今はだいたい今までの曲にないものをぶつけるようにしてる。あえてあてていくことを最近はやってるよ。そのほうが驚いてくれる」
江島「それはさ、うがった見方をすると、売れたからできるようになったオプション、でもあるよね?w」
長瀬「いやーどうだろう。それはそうは思わないかな」
江島「新人だと、奇抜さに走ると見透かされちゃうことが多いじゃない?目立つためにやったんだろうなって」
長瀬「だからね、それは目立つためだけに奇をてらってて、底があさいからだよ」
江島「もうちょっと引っ張るけど、底の浅さ深さって、先入観にかなり依存するとおもう。有名で実績のある人がそれをやったなら、そういうこともできた上でやってるってわかるけど、ただの新人だと文脈がないじゃない?」
長瀬「うーん、たぶん、あてていく、というところを、すごく気をてらったところに考えているからだと思うんだけど、なんていうかな、「あれ?これ、今までやっててもおかしくなかったし本人にすごくあってるけど新しいね」というところにもっていくということかな。なんでいままでやってなかったの?っていう」
江島「うぉー超難易度高しw」
長瀬「まあ、にちゃん用語でいうと斜め上をいくってやつ?半歩さきをいくのですよ。一歩は早すぎる」
(略)
江島「ああ、個人でやれたらだいぶ違うだろうなという感覚はあるね」
長瀬「そうそう」
江島「いつもメンバーとコンフリクトしまくりだもんw」
長瀬「ひとりだと自分で体感するだけで済むから」
江島「人のせいにはしたくないから、そうなると、妥協しないために、どうしても相手との削りあいになっちゃう」
長瀬「レコード会社でいうディレクターの立場だよね」
江島「あー、そうだろうねたぶん。で、自分も作家だと思ってるからなおさら」
長瀬「本当にとがったものは独裁者から生まれるのかもしれないね、最初は」
江島「でも、自分の作品ですって胸を張れないと、後悔もできないよ」
長瀬「そう」
江島「反省もできない」
長瀬「そのとおりだよね」
江島「なんかのせいにしちゃう。それだけはご勘弁、なんだよね」
長瀬「反省できない。そのとおり。自分の作品だと思わないと。たとえディレクターに変えられたとしても。僕らだったらね」
江島「ディレクターってそういう権限あるの?」
長瀬「あるよあるよー」
江島「うは、そうなんだw」
長瀬「いいなりですよw」
江島「具体的にどういうところを指示してくるの?」
長瀬「そりゃ、歌詞とか、アレンジとか、こういう風にしてくれといわれたら一切逆らえないよw」
江島「反対はしないの?」
長瀬「意見はいうけど、反論はしない」
江島「まじwディレクターうらやましいww」
長瀬「うん、だからね、その作品はディレクターの作品なんだよ。基本的に」
江島「なるほどねー」
長瀬「そしてすべての責任はディレクターにある。それで売れなくて飛ばされるのもディレクター。でも我々もそれが自分の作品ということになるから困るんだよなw」
江島「でも、他のみんなも食いっぱぐれるという意味では同じじゃないの?」
長瀬「そうそう。だからつらい。自分の表現したかったことができてない作品でも自分の作品になる」
江島「そこでいうディレクターの責任って何?」
長瀬「ディレクターの責任は売り上げだね。僕らはくだらない曲をかいた作家という形のツケ」
江島「なるほどーーーー目から鱗」
長瀬「でも、だいたいみな業界の人もわかってるから、全部僕らの責任とは思わない」
江島「業界の人はわかってるかも知れないけど、一般リスナーはわからないよね」
長瀬「そうそう。でもまぁ、作家にあたりはずれがあることくらいはわかってるから、そこに甘えちゃうところもあるんだけどね」
江島「まぁ、作品を作り続けてれば、本質は見えるか」
長瀬「そうだね。だから、なるべく自分の表現したいことが表現できるような環境を選ぶよねこっちも。ディレクターとか、会社とか」
江島「あぁ、なるほど」
長瀬「アーティストとか、ビジョンが共有できてればだいたいいい作品になる。結果として違ったアレンジになっても本質はちゃんと見えてるから。でも、本質とか核が揺らぐようなかたちで出されることもたくさんある」
江島「ほほー」
長瀬「そこの本質が共有できてると、たとえばバラードをアップテンポにされても、ああ、これはこういう曲ですっていう感じになるね」
江島「そこで他の人に対する裁量の自由度・許容度って、難しい問題だよね」
長瀬「そうだね。複数の人がからむと難しいよ」
江島「そういう、他人の意見を受け入れるのも、経験値かなという気がした」
長瀬「そうかもね。自分の世界だけにこだわらず本質さえしっかりしていればいいと思えるようになったよ」
江島「すばらしす」
(略)
♪ 長瀬弘樹 / 夏の残像
※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。シーネットネットワークスジャパン および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
dio on 2008/05/28
let_it_grow461 on 2008/05/28
internalistさん
ありがとうございます。:)
ろっどまっつさん
自分が大衆の一員であることは事実ですが、それだけで大衆に受けるミリオンセラーを作れるわけではありませんよね。今回の「大衆」をめぐるトピックの文脈は、どういう自己像をもつ「べき」かという学生がよくやるようなナイーヴな認識論的な話というよりも、どうやれば売れるか、というしたたかな戦略の議論です。私は正しい自己像なんてものの存在をそもそも信じてないし、仮に「より正しい」認識というものがあったとしても、それが生きていく上で自分を導くようなものでなければ、そんな哲学は寝言だと思っています。どんなにナルシスティックでも、あるいは逆に自虐的でも、それが生きていく上で役に立つ、つまり自分や他人を幸せにする一助となるのであれば、それでいいと思っています。
kenn on 2008/05/27
大衆周りの話が出たので、一言。
「大衆になる」とか「大衆の一部として」とか、いう言い方自体は、やはり勘違いと思う。
そもそも、生まれたときから、ずっと大衆の一部でしょ、みんな。
「なる」までもなく、「そうである」じゃないですか。
「大衆は〜どーたらこーたら」って、クダ巻いて、わざわざ「大衆」と自分を区別する必要性に駆られてること自体、大衆の一部でありながら大衆から抜けられない、典型的な大衆の姿。
今の日本で、真に大衆でないといいきれる存在は、まあ天皇陛下とその一族くらいしかいないといっても過言じゃないでしょ。
そもそも、民主主義は、おおまかに言って、国民のすべてを大衆化するシステムなんだし。
UKとかピンクフロイドとか、難解なロックCDを聞いてる京大生あたりは、「俺は大衆とは違う」なんていいたくもなってくるんだろうけど、CD買ってる時点で、大衆であることの証左。
ほんとに大衆でない連中って、一晩のコンサートで数百万ドル稼ぐようなバンドを甥っ子の誕生パーティに簡単に呼んだりするわけでね。
2000円か3000円で、一晩分の演奏を繰り返し聴きたいなんてのは、
そもそも貧乏人の発想、大衆の考え方なんです。
聞いてるもんがニッチだろうが、売れてなかろうが、市場原理という同じ土俵に乗ってるわけでね。
市場経済原理自体が大衆向けのもんだと思う。
市場原理は、金による投票システムなわけで、大衆が力を持つ民主主義的な要素がなければ成立しない。
興味深いのは、大衆を客体化しなくてはいかんような勘違い状態に、一時とはいえ、なぜ陥るのか、ということ。
どーして、そういう上から目線になるのか。そして、意識として
そこから「わざわざ下りなくてはならない」のか。
最初から、自分は大衆。悲しいマジョリティの一部を形成している、マイノリティ。わざわざ気づくまでもなく、それが事実だと思う。
ろっどまっつ on 2008/05/26
internalist on 2008/05/24
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一部の人のための,高級な理解力を要する作品を芸術っていう場面があることだけでも,大衆は死んでなくないかな?表現するためには,まず自分と他を区別する.この時点でおそらく大衆は出現しているんじゃなかろうか.ついでに芸術家はもともと大衆を相手にするべきもの,いや,相手にできてこそ芸術家じゃないかと僕は思っている.ただしおもねることは作品の表現とは違うという認識が前提.
自らの思いをきちんと他に伝えるためにはやっぱり,他を共感させる手段で表現する必要がある.もちろん気持ちいい共感か,気持ち悪い共感かなどは問わない.高確率で相手を共感させる表現をするためには,共通認識を可能にする共通体験が必要で,相手が多くなればなるほど陳腐にならない最大公約数を探すのが難しい.幼稚な作品がたまたま人の心を打つことはあるけど偶然には頼れない(霞では暮らせない).斬新な切り口をもってできるだけ多くの人の心を高確率で動かすことは,事前に作者に相当量の人間的な修養と思索を要求するんじゃないかな.だからといって一部の人の理解でいいなんて,もちろん趣味の問題だけど,芸術家っていうにはちょっと志が低いと思うから,芸術家はやっぱり大衆を相手にしたいところ.
「1)大衆は死んでいないと思う,2)作品が受けるかどうかは,作者が素材を他に理解させられるかどうかにかかっているんじゃないかと思う」,と書きたかったんだけど・・・とにかく江島さんの文章には,能動的に反応しようとさせる力があるのは間違いない!(なんという落ち)言いたいことを伝えてみたかったため,若干論旨がずれていることについては平にご容赦下さい.