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梅田望夫氏の「ウェブ進化論」を読んで

2006/03/02 10:29
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「ウェブ進化論」いわゆる梅田本が出版されて約3週間になる。一般書籍としてベストセラーになったこの本は、ますます断絶を深めていく「あちら側(There)」と「こちら側(Here)」の世界観のはざまで苦しみもがく人々の叫びとして、どこまで世の中に届いたのだろうか。

ウェブ進化論
ウェブ進化論

改めて振り返ると、急速に収束しつつあるネット世界のビジネスの「共通認識」をこれほどタイムリーかつ端的にまとめた書籍が、これまで少なくとも日本語という言語圏には存在していなかったことに気がついた。

ある人は「ある一つの着地点へと収束しつつある」という実感もなく、この言明そのものに異を唱えるだろうし、ある人はグーグルというアイコンの存在のすごさが「わからない」ことを気まずく感じていることだろう。むしろそういうビギナーに向けて書かれたこの本は、明らかに時宜を得た一冊だった。ネットはつまみ食いしてるだけという保守主義者は四の五の言わずとにかくこれだけは読め。たったの250ページだ。そう言い切ってよい良著である。

しかしこの本は、それでもなお、おそらく既存のエスタブリッシュメント層の人々には、どこか遠くの世界で起きていてテレビや新聞をにぎわす戦争のようなものとして、あるいはスリリングな小説か映画のようなエンターテインメントとして消費されてしまうだろう。オビに羽生善治さんが「これは物語ではなく 現在進行形の現実である。」と書いているにもかかわらず。

あるいは、ネット世界の住人にとっては、言いたくて言いたくてたまらなかったことを痛快に代弁してくれたこのような本がベストセラーになったという事実にカタルシスを感じて満足してしまい、これでもって自らの立ち位置がすべて正当化されたかのような錯覚に陥るだろう。前出の同じオビに「グーグルとネット社会の未来について、 希望と不安が見えてくる。」と、注意深く選ばれた言葉が置かれているにもかかわらず。

そのことには誰よりも梅田さんご自身が一番よく気がついていて、よく世代論とか「永遠に分かり合えない二つの世界」というような言葉でアジテーションしながら、この断裂した価値観の衝突がもたらす破局について警鐘を鳴らしているのはご存じの通り。

アメ車に乗らない人とは先日デトロイトで発表された2007年に復活するカマロの話題で盛り上がれないし、ハナからプログレを聴かない人にはイエスの凄さを伝えられないし、科学を愛さずSF小説を読まない人には、なぜグレッグ・イーガンを読んで涙を流すような体験が可能かを説明することは無意味だ。

同じ理由により、ネットの世界に住んでいない人間にネットの世界の中でつくられるプロダクトの手触りはわからない。そこには自動車や家電製品と同じ、テイストとか乗り心地としか表現しようのない感覚が勝敗を分ける厳しい淘汰のルールが横たわっていて、いいシェフやいい建築家やいいアーティストが決定的に不足しているのだが、その欠乏感がわからない。

だからビジネスとして参入する作法がわからない。必要は発明の母だというのに、企業の中枢たるディシジョン・メーカーがその世界に住んでおらず、切実な必要性を感じる機会がないのだから当たり前なのだ。

人間には視覚、聴覚といったプリミティブな「五感」があるとされているが、実は脳というものは一般に考えられているよりはるかに可塑的で、高次知覚ではそもそも幻想と現実の区別などないということについてはすでに触れたことがある。

つまり、いま我々はネットという突如として眼前に広がった「世界」に対してのみ有効な「第六感」を発達させる、長い長い進化の途についたのだ、と考えることさえできる。

梅田さんはこの本の中でサンタフェ研究所のブライアン・アーサーの言葉をひいて「情報革命は産業革命に匹敵する数十年オーダーの大きな変化である」と言われているが、ぼくにとっては情報革命とはグーテンベルクが活版印刷によって情報というものに物質性を与えた15世紀頃からこのかたずっと続いており、そういう中にあってのインターネットとは、1940年頃のコンピュータの登場すらインターネットのための序曲に過ぎなかったというぐらいの、ドイツの宗教革命やフランスの市民革命に匹敵する、数百年オーダーの巨大な変化のはじまりとして位置づけることができると考えている。

繰り返すが、ネットは「仮想世界」ではなく「世界」だ。脳はこれらを区別することはできない。そこは「社会のようなもの」ではなくて「社会」そのものであり、生活の場であり、ビジネスの場であり、生産と消費の双方が行われる場である。そこは「こちら側」での知識や経験の多寡ではなく「あちら側」での体験の差のみが有効な差異として競争原理が成立しているビジネスの場でもある。

梅田さんの日経ITproにおけるインタビューで記載のあった「Googleはネットワークの向こう側で「モノづくり」を行う技術志向のコンピュータ・メーカーだ」という指摘はものすごく本質をついた鋭いものだ。これは何かの比喩としてではなく文字通りの意味において正しい。

日本の産業界は「モノづくり」を志向しているらしいが、その「モノ」が金属やプラスチックで構成された物質だと決めつけているのはなぜだろうか。これは端的にいって「モノ」という言葉のカテゴリー・ミステイクだ。「モノ」とは、それがあることで消費者のライフスタイルをちょっぴり良いものへと変えることができるキッカケのことだ。「こちら側」ではモノが溢れているが、「あちら側」ではモノが欠乏している。

消費者に新鮮な体験をもたらす現場は、どんどん物質界を離れて脳の中へと深く入り込んでいるのだ。そこにフロンティアがあることに目を向けてない人が多すぎる。あるいは、気がついているにもかかわらず新たなリスクを取らなくても生涯を終えることができる算段が立っているために敢えてウォッチャーに甘んじ、身を呈して行動していない人が多すぎる。それは日本の産業経済に対する裏切り行為にも等しい。

と、この本を読むことで、そのようなことを言っておきたくなった。さらにいえば、この本は、このブログを読んでるようなあなたのためというよりも、あなたが自腹を切ってでも上司にプレゼントすれば、無言でその真剣さが伝わるような、そんなメッセージの込められた本だ。

この二つの世界の間に横たわる溝は、いくら言葉を尽くしても埋まる気がしない。そのような焦燥とも憔悴ともいえる何かに突き動かされることによって、ぼくはこのポストを書いた。

電脳社会の世界観にひとつの大きな金字塔を打ち立てたアニメ「攻殻機動隊」の続編「イノセンス」で、まさにこの対立する世界観のすれ違いを象徴するような決めセリフがあったので、いくつか引用してエディタのウィンドウを閉じることにする。

「理解なんていうものは、おおむね願望にもとづくものだ。」

「幸運が三度姿を現すように、不運も三度徴候を示す。見たくないから見ない、気が付いても言わない、言っても聞かない、そして破局を迎える。」

「人はたいてい自分が思うほどには幸福でも不幸でもない。肝腎なのは望んだり生きたりする事に飽きないことだ。」

「孤独に歩め。悪を為さず、求めるところは少なく、林の中の象のように。」

♪ Yes / Siberian Khatru

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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