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CNET Japan ブログ

情報・時間・コミュニケーション、そして意識(4)

2005/01/27 02:26
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前回の続き。

■情報=変わらないもの、システム=変わるもの

情報とそれを取り扱うシステムとの間には、果たしてどのような関係があるのだろうか。

養老孟司氏の定式化によれば、脳=記号、細胞=遺伝子という対照を考えることができる。お望みなら、ここにプログラム=データという組も加えてもいい。つまり「情報を入出力・解釈するシステム」と「そのシステムが扱う情報」のペアである。このように定義したときのシステムと情報の違いはなにか。システムは生きて動いているが、情報は固定している。細胞は生きて代謝しているから、どの瞬間をとっても二度と同じ状態をとることはない。脳を含む神経系も、常にダイナミックな再構成を繰り返しており、二度と同じ状態をとることはない。しかし、情報とは混沌をていねいに畳み込んで復元可能な秩序へと圧縮しようとする計算力学の結果であり、変わらないことこそ本質である。

もし日常的な感覚から情報が固定しているということが理解できなければ、以下のことをよく考えてみて欲しい。今日のニュース番組を録画しておけば、10年先でも同じニュースを見ることができる。しかし、10年後に同じニュースを見たときの感想は、きっと違うだろう。なぜ違うかと言えば、「脳が変化したから」に他ならない。ところがその間、映像の内容にはまったく変化はない。

あるいは日常のおしゃべりを考えてみてもいい。そんなものは絶えず変化していく、と考えるかも知れない。しかし、それを録音すれば何度でも同じおしゃべりを再生することができる。ところが、同じおしゃべりを寸分違わぬようもう一度やってみようとすると、それが不可能だということがすぐにわかる。これが、変わらない情報と生きているシステムの違いなのだ。

ところが人間は、自分は変わらないもの、さっきまでの自分と今この瞬間の自分は同じ存在、と信じて疑わない(そう仕向けられている)。それなら「同じ自分」とは、いったい誰の言い分か。それが他ならぬ意識の役割であるとするのが現代の脳科学の解釈である。

無意識によって予め準備された選択肢を、0.5秒後になってから実行するか抑止するかの決定権限しか与えられていない、自由意思という幻想に支えられたはかない存在である意識というものが、何の根拠もなく自己を変わらないものと規定したがっている。

脳はさまざまなモダリティに対応し、目で見ること、耳で聞くこと、手で触ることなどの複数の入力から世界についてのひとつの統合されたイリュージョンを構築する。違う経路から入ってきた別々の刺激を一つの実体にまとめあげて認識することで、人格に一貫性を持たせようとしている。

つまり逆にいえば誰しもが潜在的に多重人格なのであり、猫かぶりや内弁慶はあって当たり前なのである。では、個体というのは肉体的な境界を別にすれば何をもって同一であるとするのか。これについて考えるためには、重要なのは個体ではなく集団であるという議論にも目を向ける必要がある。

■利己的な遺伝子か、ノスタルジックな生体か

ネオ・ダーウィニズムの旗手リチャード・ドーキンスは主著『利己的な遺伝子』の中で、生物進化の過程で遺伝子は存続したが個体は常に死を免れなかったことを根拠にして、個体は遺伝子の「乗り物」であるという主張を徹頭徹尾つらぬいた。ここまでの議論によれば、この考え方は二つの点で重要な点を見逃している。一つは、解釈のないところに情報は実在しないということである。情報の実在性を担保するものは解釈という境界条件であり、解釈のない情報というものは物理量として無限大に発散してしまうことは第二回で既に述べた。もう一つは、細胞という生きているシステムもまた、滅びたことがないということである。19世紀ドイツの細胞病理学の祖ルドルフ・ウィルヒョウは「すべての細胞は細胞から」と言った。つまり真核生物の進化の過程で存続してきたのは遺伝子だけではなく、細胞という生きたシステムもまた連綿と生き残っているのである。つまり、個体の乗り捨てというイメージは「死」という概念の定義の曖昧さと、一方で「死」が感情にストレートに訴えかけるインパクトに寄りかかった議論だったということになる。

どうやら、科学者というのは記号や素粒子のような不変パラメータへの還元論が大好きであるらしい。前回にもサピア=ウォーフ仮説のくだりで述べたように、「遺伝子が細胞を決定する」という言明はさかさまにして「細胞が(自己の発生を記述するのに必要十分な)遺伝子を決定する」としても矛盾しない。鶏が先か卵が先か、どちらでも良かったのである。「個体は遺伝子の乗り物である」という言明と同じ程度には「遺伝子は個体のメッセージである」という言明も意味を持つ。本質は自然選択の理論なのであって、同じエッセンスをさかさまの定式化と説明様式から構成できた可能性はあったし、今もあるはずだ。ドーキンスほど魅力的な文学に仕立て上げられる人がそうそう簡単に出てくるとは思えないけれど、つまりはただそれだけのこと。

細胞における代謝という活動は、Aという分子を摂取したらZという分子と結合してBという分子になり、炭酸ガスを排出してCになるときにエネルギーを生じ、水分子を失ってDに変化する。こういう過程を経て最終的にまたZという分子が再び生じ、振り出しに戻るというようなサイクルになっている。このサイクルは常に変化を続けているにもかかわらず、どの瞬間のスナップショットをとってもそこに存在している構成分子は変わらない。つまり細胞というシステムは変化をしながら同時に自己保存も行っているのである。

「飛んでる矢は静止している」というゼノンのパラドックスに接近してしまったようだ。では、保存とは何だろう。

■通信と保存は同じ?

コンピュータサイエンスの大家ダニエル・ヒリスは「情報の『通信』と『保存』の間に本質的な違いはない」という指摘をした。

なるほど確かに「通信」ではビット化された情報がある地点から別の地点へと空間的に移動するのに対し、「保存」ではビット化された情報がある時点から別の時点へと時間的に移動する。つまり、通信も保存もビットデータを時空内で移動させているに過ぎず、四次元的に考えれば両者の意味するところは等価である。ちなみに、クロック同期式のフィードバックループによって絶えずリフレッシュされている揮発性の記憶装置を用いている現在のコンピュータにとっては、この解釈は比喩以上のリアリティを持っている。

このことをもっと別の観点からも検討したければ、コンピュータの動作原理というのは物理的空間としての回路をある媒体が一方向に流れ、それを制御するON/OFFスイッチの連鎖だということを思い出してみるといい。

電流を媒体とする現在のコンピュータではスイッチは半導体だし、媒体が水流ならスイッチは調節弁となる。媒体は他にも歯車でも棒でも化学薬品でもかまわないし、ナノテクの世界では半導体の代わりに有機分子や原子が次世代のスイッチとして使えるだろうと研究が進められている。しかしいずれにせよ、本質は変わらない。AND演算を実現するには二つのスイッチを直列に接続すればよく、並列に接続すればOR演算ができる。媒体は一方向性のもので、入力から出力に向かって一方向に連結され、逆流しない通信流となる。この原理は、パスカルが17世紀に最初の歯車式の計算機をつくった頃から何ら変わっていない。とすれば、この世界観の中では「空間」と「時間」はいずれも不可逆性を含む次元という属性まで踏み込んでも等価だ。

独立行政法人 物質・材料研究機構など、「原子スイッチ」を発表

このことは何を意味しているだろうか。通信と保存が同等であることは、コピーの完全さを保証している。他人に何かを伝えるメッセージとしての情報と、それとまったく同じものを手元にも残しておけるという、情報の自己複製という側面を表している。そして、このことの物理学的な帰結として、コピーは時間について不可逆なプロセスだということも同時に意味している。

カエルの発生は球形の胚細胞から始まる。細胞分裂をするときに遺伝子のコピーを行う。分割を重ねるごとに対称性を失い、オタマジャクシを経て、成体になるときには左右の鏡面対称性のみを残して安定する。なお、当然のことながら細胞分裂というプロセスは時間に対して不可逆である。

さて、カエルの発生過程において何が保存されたというのだろうか。これまでに述べてきたように、保存則というものはそれが成立するスケール、あるいはシステムの境界がどこにあるのかを知る必要がある。この考えを深めるためには、いよいよシステムとは何かという問いに踏み込んでいくことになる。

■複雑系のシステム論

ウィーン生まれの理論生物学者ルートヴィッヒ・フォン・ベルタランフィによって、今日の科学においてもっとも重要な命題、「要素の単純な総和は全体と等しくない」という立場が初めてはっきり打ち出された。時は1930年代、システム論の幕開けであった。

ベルタランフィの発見は、自然や社会や世界にある我々が認識しているものはすべて「相互に影響を及ぼし合う要素が多く集まってできたもの」として一般化できるということだった。ベルタランフィはこれをシステムと呼んだ。松岡正剛氏のことばを借りるなら、「電気通信もシステムだし、ヒマワリやシェパード犬もシステムであって、テレビ受像機も郵便制度も交響曲もシステムであり、また個性のような心理的なものも、学校のような制度と知識と人員がくみあわさっているものも、また法律も、道徳でさえシステムだということになる」のである。

これは驚くべき考え方だ。私たちは電気通信とシェパード犬と学校のシステムの連関をすぐさま思い浮かべることはできないし、そもそもそんな必要があるのかと誰もが思った。だからこそベルタランフィは、ここに現代人の思考の限界を見て取った。専門分化が進む「知」の体系は、このままではタテ割りになって互いに盲目になっていってしまう。ベルタランフィの「一般システム理論(GST)」の「一般」には、そういった危惧に対する主張が込められていた。

松岡正剛の千夜千冊『一般システム理論』ルートヴィッヒ・フォン・ベルタランフィ

その後、1950年代には第2次世界大戦直後にノーバート・ウィーナーが著した「サイバネティクス」によってシステムは通信と制御によって構成されるフィードバック循環系であるという理解へと拡張され、1960年代にはイリヤ・プリゴジンが自発的な対称性の破れの発見から散逸構造論を、1970年代にはマトゥラーナとヴァレラが入出力をもつブラックボックスとしてのシステムという観測者=対象の関係を捨て、システムの内部からどのようにシステムと環境の境界が生成されていくかという視点を導入したオートポイエーシスへと発展してきた。

松岡正剛の千夜千冊『確実性の終焉』イリヤ・プリゴジン

歴史的にみて、生物学者はこのようなシステムを観察する視点の「ずらし」を頻繁に行ってきた。メンデル的な突然変異、例えば緑色の親から黄色の子へと離散的に変化するような事象をとらえてダーウィンの滑らかな進化説が曲げられそうになったときには、個体ではなく集団、つまり遺伝子をプールとしてみれば全体での進化は連続なのだという視点の「ずらし」で議論を決着させた。このとき、造物主の工程の「ゆらぎ」に過ぎないと考えられていた個体差を、それこそが進化の原動力であると喝破した点は、対称性の破れや誤差の蓄積が自己組織化の契機になると考えるカオスや複雑系の考え方を先取りしていたということもできる。

だが、そうすると生物というシステムを扱うとき、適切な境界というのはどこなのだろう?インセスト回避からエルンスト・マイヤーの生殖隔離までの「種」とやらか?それとも食物連鎖系?競争や共生って何と何の間に成り立つんだろう?

ただひとつわかっていることは、再びベルタランフィの定義に戻れば「部分の単純な総和は全体と等しくない」ということだけだ。システム論は、芸術・経済・生物・物理・社会を股にかける今もっともホットな学際分野である。

■物語こそすべて

さて、そろそろまとめに入らないといけない。

本当はここから量子論やら解析力学やら発生学やら代数幾何やらにつなげてみたかったんだけど(というか、本当は予定ではそちらがクライマックスになるはずだったのだけど)、試しに書いてみたらわかりやすく書くことがどうやっても難しそうなので今回はボツにした。だから、これらについては(もしあれば)別の機会にゆずろう。

最後に、コミュニケーションにおける物語の価値について書いて締めくくろうと思う。

世の中には、断片的な知識は増えている。ネットなどの媒体の充実によって、知的好奇心を満足させるひとくちサイズの情報には困らなくなった。だけど、それらの情報をつなぎ合わせて大きなコンテキストの中に定着させるということは相変わらず難しい。

ひとつの知識は、それだけでは意味をもたない。他のさまざまな知識と関連づけ、そこから大きな解釈を引き出せてはじめて「あぁそうか、わかった」となる。そのとき脳内ではドーパミンが放出され、快感を得ることだろう。

これは、ネット界隈のみなさんが大好きなバラバシやワッツのネットワーク理論、パーコレーションとかティッピング・ポイントなどのキータームで語られているべき乗則のモデルで理解することもできる。最初は碁盤の上にランダムに碁石を置いていくようにバラバラな知識を集めているだけなのが、どこかのタイミングで一気に端から端までつながってしまう。そもそも脳というのはそういう反応の連鎖を期待するネットワーク構造になっているのだ。

どういう情報とどういう情報を結びつけるかというのは本来は解釈する受け手側のアクティビティなのだが、逆に、情報を提供する側が最初から関連づけを与えておき、パーコレーションを起こしやすくする工夫もできる。それが「物語」のちからなのだ。

簡単に物語といっても、それが成立するためにはある程度の論理的な整合性が必要となる。アブダクションやレトロダクションといった推定のやり方をうまく活用することになるだろう。もしくは、ちょっとロジックを外してアナロジーを使ってみるという手もある。とにもかくにも、一番大事なのは、ドーパミンが湧き出るようなエンターテインメントになってなくてはいけないということだ。物語はまさに一種の文学といっていい。

記憶は嘘をつく。物語になっていないものはすぐに記憶から落ちてしまうか、別の物語に無理矢理歪めて押し込められてしまう。脳の記憶の基本形は連想記憶なのだ。コンテキストがすでに共有されている狭いコミュニティなら「?」と「!」でもコミュニケーションが成り立つかも知れないけれど、爆発的に広がっていくメッセージというのは、すべからく物語である。つまり、マーケティングでもコア・メッセージにはコンテキストもくっつけてやらないと伝播していかないぞってことなのである。

私は、今回のシリーズ・エントリを通じてものごとの本質を追求することの面白さを、上記のような物語として紹介したかった(あまりうまくいかなかったかも知れないけれど)。

いい論文というのはだいたい最高のエンターテインメントになっている。福沢諭吉だってルソーだってESRだって、歴史にその名を残すような人たちだから、さぞかし真面目な人たちだろうと思われてるかも知れないけど、その筆致は熱くてぶっとんでる。まぁようするに、正しいことを堅苦しくまじめにやるのは簡単だけど、そうやってるうちはブレイクはしないんだよ、ということを言いたかったのだ。

「心の琴線に触れるメッセージを」なんて月並みな言い回しが、今回のシリーズの締めくくりの言葉だったりするのである。私は果たしてこの言葉にどこまでコンテキストを埋め込むことに成功しただろうか。

(おわり)

人間科学(養老孟司)
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唯脳論』以降の養老孟司氏の主著ともいえる珠玉の一冊。約2年ぶりに読み返してみたら、まったく違う新鮮な印象をもった。きっと私の脳が変わったのに違いない。そして、これからも何度も読み返すことになるだろう。

新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く(アルバート・ラズロ・バラバシ)
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ポップ・サイエンスの最先端。スケールフリー・ネットワークの理論を軸にすえたマーケティング入門書として最適。リンク先で目次を見てもらえば、いかに幅広いテーマを俎上に乗せているかがわかるだろう。もう少し突っ込んだ内容がよければマーク・ブキャナンの『歴史の方程式』もおすすめ。

メタモルフォーゼ―オートポイエーシスの核心(河本 英夫)
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私たちが知っていると思っている宇宙は、たかだか5%しか実際の観測にかかってないのに、残りをダークマターなどで埋めて量目調整したり、人類が滅ぶまでに観測しようがない宇宙の開闢について考えたり、量子をヒモとみなして数学的な調和を目指すエリートたちのゲームが万物理論であると言われて久しいわけですが、そういうプラトニックな物理学の世界からちょっと離れてみれば、オートポイエーシスこそがほんとうの意味で私たちにとっての万物理論かも知れない。カオスや複雑系のその先に興味のある人へ。

M2M / Everything

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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