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切実なき時代の切実

2004/12/20 05:14
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前回のエントリに対するFumisky Wellsさんからのコメントが気になっていました。

ああいうエントリへの解釈を本人が加えるのは興醒めだという思いもあったし、本当はもうちょっと軽く返そうと思っていたのですが、体調を崩してしまってお返事が遅くなってしまったこともあり、コメント欄ではなく別エントリを起こして回答することにしました。

で、どこが気になったかというと、

いつも興味深く読ませていただいています。さて、江島様は「破壊的イノベーション」の原理を前提として”公理はテクノロジー(アーキテクチャ)の方”とか”革命は下から”(だったかな?)というお考えをお持ちのようですが、この見解はどれほど確信的でしょうか。100%?90%?

という部分です。

ひとつハッキリしておきたかったのは、「破壊的イノベーションは下から」という場合と「技術革新は下のレイヤーから」という場合の「下」はそれぞれまったく別物だ、という点なのでした。

確かに私はたびたびこの両方を主張していますが、これらは必ず独立した文脈で用いているはずです(前回は後者)。しかし、Fumisky Wellsさんのように愛読いただいている方にさえ誤解を与えているようでは私の問題も大きいと感じ、改めて整理に乗り出した次第です。

「技術革新」の文脈における「下」では、ほぼ誤解の余地ないと思いますが技術スタックにおける下層を意味しています。演繹的・論理的・数学的と言ってもいいと思いますが、いわゆる「固い」理論です。

しかし、「破壊的イノベーション」という場合の「下」は、市場経済というパラダイムにおける利益率・製品の複雑さ・市場規模、などについての「下」であって、その意外性こそが人気の秘訣であり、こちらは社会学などと同じく物語性に依存した「緩い」理論と言えます。(ここで「固い」「緩い」の定義や境界についてはレトリックとして一旦飲み下してもらうとして)

ここまでを踏まえていただいた上で、Fumisky Wellsさんのコメントにおけるイノベーションのジレンマとゲーデルの定理との関連づけは、そもそも緩い理論の限界を固い理論で指摘しようとしている点で暖簾に腕押しな印象を受けました(ポランニーはすみませんが読んだことがないので関連性を理解できていません)。イノベーションのジレンマは固い理論ではありませんからもちろん100%の再現性はありませんが、実践的だと言い切れるぐらいには役に立っています。「競争に勝つ」という目的指向のスコープにおいては、それで十分ではないでしょうか。

そしてこれら二者の関係という点では、より巨視的には唯物史観的な立場を採っていると表明した前回のエントリのスコープから見れば、「イノベーションのジレンマ」の理論も所詮、現行経済システムありきの些事であり戯言に過ぎません。

技術革新を支えてきたものは、経済システムだけではなく、むしろそれが根本的かつ大規模な投資を要するものであればあるほど政治(軍事)的動機が背景にあった、と言い切っても、これを否定するに足るだけの反証を挙げるのは難しいでしょう。

ここまでを一旦押さえていただければ、腰を据えてあとの議論にかかれると思います。

一方、トラックバックをいただいた方では、「OPC Diary」は趣旨を的確にフォローいただいていると思います。

あと、「Acute!!? pages:社会システムは技術によって壊れるものなのか?」のこの一言にはドキッとさせられました。

というか、この分野って、そもそも本質的なホットな時代ってあったんだろうか?ハードがホットだった時代はあるだろうけど、ソフトウェアやサービスは結果的には、そんなに盛り上がっていなかった気がする。いまから考えると。

ある発明が記憶に残り歴史に刻まれるためには「普遍性」あるいは「作品性」を帯びている必要があるのだけれど、ソフトウェアもサービスもそういう属性を獲得したことはないではないか。うーん、作為的な目的指向という呪縛からの解放は、とても高いハードルのようです。


さて、議論の次のステップに進むヒントになりそうなのは、現代は「経済」というコトバが示すものの観念化・ゲーム化が過剰に進行していて、マルクスが主張した頃のような、生きていく上での切実な生産活動としての「経済」とは乖離が進んでいるのではないか、という問いです。従って前エントリでも「政治・文化 vs 経済(=技術)」の上下構造ではなく「政治・文化・経済 vs 技術」の構造と述べていました。まぁ、実はこの二項対立の構造は便宜上のものなので何を入れてもいいんですが、今一度よく考えると「ゆとり vs 切実」という認識枠が概念的には良さそうです。(この経済の「ゆとり化」も、貨幣の出現や金融の電子化など広義のテクノロジーが、計量的・数理的な上澄みと基礎的な生産活動の分離を進行させるきっかけになったと考えています)

私は、この文脈において「切実なき時代の切実とは何か」を論じたいのでしょう。我々の世代は戦争も飢饉も原体験を持っていない。生存に関わるような切実について論じるための共感のベースを持たないのかも知れない。それでも、次にやってくる切実もやはり技術が媒体でありトリガーであるはずだ、と。

科学は冷たい。

前回の主張の繰り返しになるけれども、思想や倫理がいつも共同体のアイデンティティを保ち平和や秩序を求める「ちから」であったのに対し、科学技術はいつも差異を生み既存のルールを壊す不条理な「ちから」だったではないですか。

科学はいつも陰と陽をもたらすのに、科学者たちの罪悪感はいつも首尾良くロンダリングされる。

多くの人々が現在の生活水準を下げられないがために、たとえば原子力発電というリスクに甘んじつつ級数的に増え続けるエネルギー消費の問題を無視し続けています。いわば、破綻に向かってまっしぐらのデスマーチ。

「冷戦より難問」:ノーベル賞化学者、エネルギー問題に警鐘

現在の政治・経済のパラダイムはこの問題に対してどこまで柔軟なバッファを用意できるでしょうか?電力の証券化や政策レベルでのエネルギー代替技術・省エネ技術へのインセンティブ付与などの小手先の対策は積み上げられるでしょうが、それでいつまで持ちこたえるのでしょうか?(個人的には、このテーマはこれひとつでめちゃくちゃすごいSF小説が一本書けるぐらい、私たちの生活や社会を変えてしまう可能性を秘めていると思っているのですが)

科学は後退を知らず、究極のノンゼロサムゲームであり、そして科学という不断の入力によって社会システムは非平衡系であり、常に臨界状態にあると見ることもできます。

観測限界未満の地震は私たちの足下で常に起きているのと同様に、テクノロジーによる社会システムの小さな破綻は常に起きていると言えます。ではマグニチュード10の破綻はいつ起きるのか?という決して回避も予見すらもできない問いこそが、本当の切実な問いであるはずです。

我々がどっぷり浸かっている、民意や市場という覆面をかぶった妥協の論理は、抗いがたい強力な説得力を持っています。そんな中で、あらゆる価値観が相対化されるポストモダンの時代を生きていると思い込んでいる日本の中産階級という緩慢な平和ボケのマジョリティは、果たしてどこまでこういう問題とリアリティをもって向き合い得るのか。

そんなことをつらつら考えていたら夜が明けそうになってきたので、今回はここまで。

土濃塚隆一郎 / Lonely Flower

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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