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コンピュータ・サイエンス興亡の雅致

2004/08/16 04:38
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コンピュータを学問することは、もはや時代錯誤なのだろうか。
この記事を読んだときの、ぼくの感想である。

コンピュータ科学に背を向ける学生たち

 今秋、MITの電気工学/コンピュータ学科(Department of Electrical Engineering and Computer Science:EECS)に入学する学部生は200名を下回る。昨年の入学者数は約240名、3年前には385名だった。

 ラドガーズ大学のコンピュータ学科では、今年の入学者数について、ピークを迎えた数年前の入学者数6500名と比較して何千名単位で減少するものと見込んでおり、複数の科目コースを中止している。学部生にコンピュータ科学関連の科目を講義するSaul Levy教授は、学生数の減少傾向について、学生の職業観を反映したものだと述べる。

 「学生はもはや、コンピュータ関連の雇用市場に期待していない」(Levy)

 今年、カーネギーメロン大学のコンピュータ学科に志願した学生数は2000名だった。これに対し、2001年の志願者数は3200名だった。また今春、カリフォルニア大学バークレー校で学士号の取得を目指すコンピュータ科学専攻の学生数は226名だが、2003年春の同学生数は240名だった。スタンフォード大学でも、コンピュータ科学を専攻する学部生の数が4年前と比べて減少しており、2000〜2001年には171名いた学部生が、昨年は118名まで減少している。

■目的としての学問、手段としての学問

イマドキの学生たちは、学問の世界に何を求めているのだろう。

単に「それがぼくには楽しかったから」というノーテンキな理由だけでコンピュータを専門と決めてしまい、それをそのまま運良く職業に接続してしまうことができたぼくにとっては、若い時分より将来のロードマップを計画し、そのために「たかが手段なのだから」といってクレバーに専門を選ぶというスタイルには、いささか理解不能なわだかまりがある。

かつて興奮を覚えつつ読んだ浅田彰氏の「構造と力」には、序論に「目的としての知と手段としての知」として、このような記述がある。

 かつて文学部と理学部が大学のイメージの中核だった時代があるという。大学に入ろうとする者は、あるいは哲学的思索にふけり、あるいは自然の謎を解き明かすというロマンティックな夢を心のどこかに秘めていたのだと、伝説は語る。現在の大学のイメージは、しかし、この上なく散文的なものにすぎない。その中核にある法学部と医学部は、学問研究の場というよりも、官僚や医師になるためのステップとして、高く評価されているのだ。

 (中略)

 そこで、大学についてのふたつのイメージの対比から明確なパターンを抽出するために、文・理学部中心−法・医学部中心という対比に、即時充足的(コンサマトリー)−手段的(インストゥルメンタル)、虚学的−実学的、「象牙の塔」的−「現実主義」的といった一連の対比を重ねてみる。すると、それらは不協和音を発しつつも、ひとつの構図へと収斂していくだろう。その上で、大勢が前者から後者へ移ってきたというストーリーが語られ、最後に、あなたは二者択一の前に立たされる。両者のうちどちらを択び取るのか。知のための知と手段としての知、そのいずれをよしとするのか。

くだんのコンピュータ・サイエンスも、いったん工学というカテゴリーに落としてしまえば「手段的」に属する一分野であるから、世の流行廃りに呑まれること必定である。ではここで「手段的」という場合、それは何のための手段か。

入学のための勉強、卒業のための進級、就職のための卒業と「手段−目的」の連鎖を追い掛けていっても目的は無限に後退し、なんとなく華やかな生活だとか、なんとなく安定な人生だとか、そのあたりでぼんやりと思考停止する。

こういうエネルギーレベルの低い状態が、一番やっかいだ。こういうときに限って、欠点が少ないことを理由に減点主義的・エリート主義的な選択に染まる。自らは安全圏に身を置いて評論家になり、無目的に下界の事どもをああだこうだとあげつらい、何を言われても馬耳東風という態度でいて、その実批判されることにはとても弱い。こんな生き様をダサいと言い切れるぐらいには、踏ん張りを保ちたいものである。では、どういう状態を理想とするか。

敢えて独断と偏見をものすならば、何かを心の底から面白いと感じ、ノリと熱中が持続しているときのモードがイチバンだ。自分の限界を超えたと感じる神がかりな瞬間は、いつも何かに夢中になっているハイなときにやってくる。人はこういう瞬間を求め、ときには新興宗教にさえ耽溺する。信じるものがあるから、批判にはめっぽう強く戦いを恐れず、しかし一方でものすごい勢いで間違った山に登ることもある。このようなリスクを承知の上で、やはりコンピュータ・サイエンスはそれ自体を目的として信じるに値する、面白いものだと言いたい。

■コンピュータ・サイエンスの広がりと魅力

ひとくちにコンピュータ・サイエンスという場合に、人物・企業の歴史、思想史・数学史上の位置づけ、自然言語と認知、ソフトウェアエンジニアリング、アーキテクチャとオペレーティングシステム、プログラミング言語とコンパイラ、データベースとネットワーク、インターネットとセキュリティなどなど、これらすべてが包摂され、奥深い世界観が広がっている。

もしきみがオペレーティングシステムやプログラミング言語やデータベース・システムをゼロから作れるスーパープログラマーだとしても、今という時代ならぼくは10年前ほど驚かない。これらにはすでにたくさんの前例があり、霊感がなくとも技術と根気さえあれば登れる山だからだ。その技術(スキル)を持ってはいるけれどもその意志(ウィル)を持っていないという人を、ぼくは相当数、知っている。この場合、この登山がいかに苦しいものであるかを知ってしまっていることが、つまり豊富な知識と経験こそがかえって登山の邪魔をしている。この気が遠くなりそうなはずの登山をいかにも簡単だと勘違いし、遂げてやろうという狂った動機があるかないかは、技術力の有無を超越したところの決定要素だ。「無知は一種の才能だ」とか「若いときにしかできない仕事がある」とかいうとき、だいたいこのようなことを意味している。

ぼくも今、この種の「年寄りスランプ」にちょっぴり出くわしている。現在の仕事でやっていることはソフトウェアエンジニアリングにまつわるプログラミング言語とコンパイラのフロンティアだという自負はあるし、ユーザから日々いただく評価も決して間違った山を登っているわけではないことを示している。でも、山頂が雲の上に隠れていてどこまでも高く昇り続けられるような高揚感は徐々に失われつつあるし、そしてこれから登りたいと思う別の山をまだ決めきれないでもいる。ビジネスとしては小さいながらも倍々で伸びているのだからぜいたくな話かも知れないけれども、「目的としての知」を希求する欲望とは、自らのパラダイムさえ破壊し続けなければならないという、小っ恥ずかしい言い方をすれば本能的な使命感を伴うものなのだ。

かつてオラクルに勤務していた頃、一般人には馴染みのないソフトウェアだけれども知る人ぞ知る、というシチュエーションをとても気に入っていた。マイクロソフトだとミーハー過ぎるしノベルだとマニアックすぎる。「高嶺の花」の醸す高級感というか、詰まるところそういう妙ちくりんなブランド意識が当時のぼくの軽薄な価値観に合っていたのだ。今やっている仕事もその延長上ということができて、まだソフトウェアのジャンルとして確立されていないレイヤーに新しいカテゴリーを規定してやろうと四苦八苦している。このBlogを読んでくれている皆さんだって、ぼくがチームの一員として日々汗水垂らして育てているソフトウェアがどういうものかを知らない人がほとんどだろう。だけど、そんな「知る人ぞ知る」へのこだわりは実はくだらないことかも知れない、と最近では思うようになってきたのだ。

今では技術者のコミュニティと一般のコミュニティがこれまでになく接近している。POSIXだの命令セットだのを語っていた人たちがBlogだのSNSだのを語る人たちと交流し、創造的な意見交換をするようになってきている。こういうときの作法は、お互いのコミュニティでしか通用しないマニアックな語彙を自制し、簡単なことばで、しかし魅力たっぷりに語ることだ。つまり、自分の領域に強固な引き出しを持ちつつも、「知る人ぞ知る」に甘んじていてはいけないのだ。

もしきみが、これからコンピュータ・サイエンスを極めようという奇特な思いを秘めている若者ならば、その引き出しを充実させるために、ぼくはエールに代えていくつかの図書を推薦しよう。

時代が移ろえど変わらぬ価値があるということを証明してくれる書籍を、以下にほんの少しだけ挙げる。ぜひ「心のバイブル」と呼べる一冊と巡り会って欲しい。

オペレーティングシステム―設計と理論およびMINIXによる実装
オペレーティングシステム―設計と理論およびMINIXによる実装

タネンバウム渾身の一冊。プロセス、入出力、メモリ管理、ファイルシステムなどのオペレーティングシステムの基礎を学ぶのにはもってこい。

コンピュータの構成と設計―ハードウエアとソフトウエアのインタフェース(上・下)
コンピュータの構成と設計―ハードウエアとソフトウエアのインタフェース(上)

お馴染みパターソン&ヘネシーのコンピュータ・アーキテクチャ入門書。CPUを中心としたコンピュータの動作原理を具体的に学びたければ、何はともあれまずこの上下巻。読みやすさ、内容の充実度ともに抜群。

思考する機械コンピュータ
思考する機械コンピュータ

半導体に依存しているかのように思われるコンピュータも動作原理は数学モデルであり、流体コンピュータなどの可能性さえあったことに気付かせてくれる。そこから自己組織系、進化論的シミュレーション、そしてコネクション・マシンへと展開していく、ダニエル・ヒリスの目から鱗の書。

計算機プログラムの構造と解釈
計算機プログラムの構造と解釈

ジェラルド・J・サスマンはガイ・L・スティール・ジュニアとともにLispの方言のひとつであるSchemeを設計した人物である。そのサスマンによってMITのコンピュータ学科の入門用教科書として書かれたのが本書である。もしきみがオブジェクト指向の一神教信者なら、きっと自分の所属するパラダイムがより普遍的な何かに包摂されているということを自覚させてくれるだろう。

心の社会
心の社会

マーヴィン・ミンスキーによると、心とは知性のない小さなエージェントが集まることによる、社会的・創発的なプロセスである。ヒューバート・ドレイファス以降、人工知能と聞けば眉に唾して臨むものとのレッテルを避けられなくなったわけだが、この書でミンスキーが示したものは、ぼくたちがいつか歩まねばならない道程でもあるに違いない。

Pretty Maids / Healing Touch

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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