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    ネット・リテラシーと民主主義と

    2004-02-27 12:02:37

    インターネットの存在を当たり前のものとして受け入れている我々現代人の多くは、概してテクノロジーに対して無批判で、情報を面白可笑しく収集するという日々の営みに対してそれほど根源的な疑問を持たない。

    今回の対象は、ニュースサイトを日々巡回したりメーリングリストに参加したりBlogや各種掲示板などをよく見ている人、つまりインターネットにおける積極的なオーディエンス一般に向けて、インターネットとの付き合い方について考えていることを書き記してみよう。

    ■メディア・リテラシーとネット・リテラシー

    メディア・リテラシーと呼ばれている概念がある。

    「メディア・リテラシーとは、市民がメディアを社会的文脈で批判的に分析し、評価し、メディアにアクセスし、多様な形態でコミュニケーションを創りだす力をさす。また、そのような力の獲得をめざす取り組みもメディア・リテラシーという」

    Media Literacy Project in Japan

    メディア・リテラシーの概念は、もともと「1対多」の情報伝達をもたらすマス・メディアの登場が社会に与えたインパクトに応じて、新しい知的活動のあり方を問うべく構築されてきたものである。

    その基本概念の心を私なりに解釈してみると、「メディアは(最大限の努力をしているとしても)中立公平に現実を書き留めたものではなく、そのメディア自身が基盤とする政治的・商業的・社会的枠組みから自由であることはできない。だから、そのことを認識しつつメディアと適切な距離をとって付き合っていくための姿勢を身につけよう」というものであるように思う。

    では、インターネットという新しいメディア(およびコミュニティ空間)との付き合い方は、メディア・リテラシーの概念によってどのように回収されるだろうか?現代人にとっての「ネット・リテラシー」とは何だろうか?

    これまでにも多数の議論が交わされてきたが未だ着地点が見出されていないこの問題に私なりの切り口を提示するにあたって、まず私自身が日常的に課題意識を持っていることについて告白しなければならない。

    ■無意識的な宗教、無意識的な政治、すなわち透明なパラダイム

    ネットは、誰もが情報を発信でき、自由自在にハイパーリンクを張ることができ、一見極めて民主的・自発的に「多対多」の関係性のもとに情報が蓄積される場所であるかのように思われる。巨大な商業ポータルから個人の日記やBlog、「2ちゃんねる」などの匿名掲示板に至るまで、あらゆる意味での自由さとランダムさが保証されているように見える。

    しかし、現実のネットの構造はかなり政治的なものであることもまた、知らなければならない。ご存知のとおりWebという空間には細分化されたコミュニティがあり、そのそれぞれに権威者は存在し、コミュニティ内、コミュニティ間で厳然たる力関係が生成されている。ネットの世界で広く認知されている権威者は、これまでの時代の権威者と比べると言語表現力などの平べったいエクリチュールへの依存性を殊更高めている。さらにGoogleのように、サイトにリンクしているページの数や影響力からそのサイトのランクを判断するという肉感に欠けるアルゴリズムを使った検索ツールがクリティカルマスを獲得していることもまた、こういった新種のオーソリティの恣意的構築を助長している。(念のためだが、私はGoogleを批判しているわけではない。テクノロジーの限界を社会がどう引き受けるのかという点に課題意識を持っているというだけのことである。いつだったか、クオリアの茂木健一郎さんがご自身のクオリア日記で「ベイズ推定はセクシーじゃない」と断じていたのには思わず膝を打ったものだが、つまりそういうことである)

    例えば現代の日本人像を好意的な側面から切ってみれば「宗教やイデオロギーにとらわれない個人として独立した価値観を持ち、自らの自由意志に基づき行動している人々」というような属性が見え隠れする。しかし反面、このような生き方を志向すればするほど人と人が深いところで了解し合って繋がりあうための基礎が見えなくなり、どういう人とどの程度まで内面性を共有すればよいのか判らず不安で仕方がなくなってくる。自由意志とは、決して強い信念とイコールではない。民主主義や自由主義といった類は我々にその点で秘やかに取引を迫る。

    結果として、理想的な自由主義を満喫しているつもりの人生ほど、知らず知らずのうちにケインズの美人投票問題(自分が誰を美人と思うかではなく、自分以外の大多数が誰を美人と思うかによって美人コンテストの勝者を予想すること)の罠に嵌ってしまう。逆説的だが、自分がどのように考えるかよりも、他人がどのように考えるかを評論家的に予想することが日常化してしまうということである。株式市場と同じで、参加者は自分自身がいくらグサリと批判的なスタンスをとっているつもりでも、大局的に見ればより付和雷同で、より大勢になびきやすく、不安定な世論や経済モメンタムが形成されていく。何というか、例えば東京への一極集中を緩和させようというあらゆる人為的な試みが裏目に出ているような、利便性の反作用とでもいうのか、政策的な都市計画に挫折をもたらした強烈な集団心理的動機に似たものを感じるのである。

    さらに論を進めるならば、他人を根本的なところでは信頼せず、自己を曝け出せない刹那的な恋愛をし、限定的な社交性に満足してしまう。このような臆病さに支配された信頼性の低い人間関係は、セキュリティ技術や保険などの財を生産しない安心産業が経済活動に占める割合が大きい高コスト体質な社会の到来を意味する。と、突き詰めればこうしたシナリオさえフィクションではなくひとつの可能性として見えてこないだろうか。

    つまり、人間にとって安心できる良質な人間関係を持ちたいという「関係欲求」は、意識的であるかどうかに関わらずかなり根源的な欲求なのではないか、ということである。

    現代人は独立独歩を志向し、古典的な意味での宗教や政治から自由であろうと意識過剰になるあまり、ネットという新しい社会空間に適応するために自らを新しい宗教観・政治観の構築に向かわせているということにあまりに無自覚だ。現代社会学の通説によれば、人間は個人である以前に集団の構成員である。自らを無党派・無宗教の自由人だと信じている現代人こそ、この解釈をもっと慎重に受け止める必要があるように思う。

    ■共同体の伝統の尊重とネット・リテラシー

    こうした観点から、ネットのオーディエンスとしてのユーザは、このコミュニティ空間における見えざる政治力学の存在、そして自らの立ち位置を強く意識しなければならない。マス・メディアがその背景にある商業的文脈を比較的あからさまに提示しているのに対し、ネットという一見アナーキーなメディアの政治力学は、よほど注意深く観察しなければ見えてこない。

    例えばネット上にある無数の、時として生々しかったり極端だったりする言論に向かうとき、その単一の言論の客観的な正しさについてリテラルに批判しようと試みるよりも、まず自分にとっての主体的な含意を確認しつつ笑ったり怒ったり感動していることを自覚しておくことが大切である。「情報を消費する」あるいは「コミュニケートする」とは、間違いなくかなりの部分、情動的な活動なのである。ショックを受けたなら、どんなに客観的であろうと意識的に努めても、それは防衛本能の一種であることを素直に認めるべきだ。

    ネット上では空間移動が容易なのだから、カルチャーショックを受ける機会は断然増えている。特に自分が普段から接しているコミュニティから遠いところに迷い込んだ場合はそうだし、反対に相手が迷い込んでくることもある。そこで衝撃的な言説に触れてしまったとき、それに圧倒されたり即座に噛み付いたりしてしまう前に、一度頭を冷やす習慣をつけてはどうかということである。その発言者ないしそのコミュニティが持っているカルチャーやコンテキストやジャーゴンを尊重し、あるいは今の自分にとって全く受容できない言説であるなら、見なかったことにしてとっとと忘れてしまった方が(時間の節約という意味で)ネット文化形成期の現在においてはプラグマティックなアプローチかも知れない。サンデル的な共和主義的コミュニタリアニズムが示唆したのは、実はこのような割り切りではなかったかと思う。ネット空間を広域に横断する規制の議論も出てきてはいるが、それよりもあらゆるオーディエンスがネット上に自分の(信念の拠り所としての)安全地帯たるホームグラウンドを持てるようになることが、ネットを真に社会の一部として平和裏に取り込む第一歩ではないか。

    こうした実践的な心がけこそが、ネット・リテラシーと題して私が言いたかったことである。しかし、こうした情緒のコントロールが「心がけ」などという生易しい覚悟で取り組めるものではないこともまた悩ましい。何よりこういった形でネット・リテラシーに言及している私自身がまだまだ修行中の身だし、これからも多くの恥をかく羽目になるだろう。ただ、恥をかくことを恐れないことを美徳としたいとは考えている。存外、その程度の差でしかないのかも知れない。

    (ちなみに少し脱線すると、主題と一見矛盾するかも知れないが、どちらかというと私は「リテラシー」という言葉はあまり好きではない。というのも、リテラシーという言葉が使われる局面では「教養のない連中を教育してやろう」あるいは「人間に仕組みを合わせるのではなく、仕組みに人間を合わせよう」という押しつけがましい啓蒙思想の匂いがプンプンすることが多いからだ。本来リテラシーとはそのような崇高なものではなく、読み書きの能力のように社会インフラとしてある程度成熟し、欠くべからざる存在になったスキルセットについての教育を泥臭く議論するための言葉であるべきだ。例えばコンピュータ・リテラシーと言えばキーボードやマウスを使ったりOSの基本操作を覚えたりといった最低限のスキルを意味するが、少なくともこの程度には価値観中立なものが望ましい。しかし、わかりやすさという点で「リテラシー」を代用できそうな単語を見つけられなかった)

    ■バランスのよいスタンスを目指して

    さて、ここまでに述べたようなことはそれなりに現実世界の荒波に揉まれてきたオトナにとっては各論はともかく基調としてはそこそこ感覚的に共通了解されることなのではないかと思う。問題は、精神的な強靱性というものに基準などなく、程度の問題を話題にすることさえ非常にセンシティブで、またその精神を鍛えるというプロセスに自覚的に身を置くということは大変な勇気を要する難しい選択であるということだ。

    特に精神的なタフさをまだ身につけられていない若い人たちがサブカルチャー的なサイトや匿名掲示板などに安易に傾倒してしまい、そこで一喜一憂しているのを見るにつけ、そういう時期もあった方がよいと思う反面でいつ卒業するのだろうかなどと説教臭いことをも思ってしまうわけである。スノッブたちのシニカルな文章が飛び交うこれらのコミュニティは、言葉による虚構の人格を構築する半分オトナ半分コドモのためのゲームあるいはカルトである。そのことをわきまえた上で、割り切って楽しむべきは楽しみ、済し崩し的に見えざる宗教に染まらないように適度な距離を保つべきではないか。染まるならむしろ確信犯として堂々と染まって欲しい。と、そのような勝手な期待を抱いてしまうのだ。(このあたりはあくまで私の偏見である)

    言葉にしてしまうと陳腐だが、やはり「理想」や「信念」といったものは依然あらゆる社会の重要な構成要素なのである。今回は敢えて「宗教」という挑戦的な単語へのパラフレーズを試みたわけだが、誰がどれほどシニカルな態度をとろうとも、注視さえすれば必ずその裏には宗教が透けて見える。所詮、人間は多重人格、社会は演劇世界である。ある役割を一貫して演じるには、理想や信念といった骨太なアイデンティティは欠かせないのだ。(Socius社会学感覚〜役割現象論

    一旦そのような人間性の基本を理解してしまえば、ネットとの付き合い方も意外なほど素直になれるものだ。この発見に関しては、私は漸く確信が持てるようになってきたところである。

    高宮マキ / WANNA LET YOU KNOW

    ※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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