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CNET Japan ブログ

ぼくらが物語で遊ぶ未来

2006/10/13 08:36
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ギートステイト制作日誌

2045年の日本を社会学や情報技術といった視点から描き出すプロジェクト「ギートステイト」。批評家の東浩紀氏、エンジニアの鈴木健氏、小説家の桜坂洋氏の3人が「未来」の制作過程をお伝えします(このブログの更新は2007年1月4日で終了しました)。
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■ 時かけとハルヒの広がりかたの違いから見えるもの

ある日、打ち合わせに出かけたわたしは、神保町の路地裏にある喫茶店でひとりのオヤジを見かけました。年齢は50代くらい。チョイ悪風で、パンツの裾から覗く靴も洒落ています。オヤジは、喫茶店のマスターに親しげに話しかけました。

「おれ、昨日、『時をかける少女』って映画を見てきたんだけどさあ……」

わたしはコーヒーを吹き出しました。

『時をかける少女』と『涼宮ハルヒの憂鬱』というふたつの作品の広まりかたが、夏頃ネットで話題になりました。憶えている人も多いでしょう。両者はどちらもすぐれた作品で、なおかつ、どちらもネットの住人の口コミによってヒットしたと言われています。

わたしたちはネットに未来を感じているため、この2作品のヒットにおいて両者のいいとこどりをしてしまいがちです。が、時かけとハルヒのヒットという2つの現象には分けて考えねばならないことがあります。そして、そこから、物語がこれから進む道みたいなものがぼんやりと見えるとわたしは思っています。

ハルヒのシリーズ約300万部は文句なしの大ヒットと言えるでしょう。また、ハルヒは、角川スニーカー文庫の看板作品であり、ライトノベルというジャンルに限って言えば、他作品に比べて十分に宣伝されています。ところがです。職業柄、歳上のかたと話したりすることも多いわたしが、ハルヒの話題をあまり聞きません。SOS団のTシャツを着て宝くじを当てたオヤジの例もありますし、抽出対象がずれている可能性もあるのですが、わたしの実感が正しいならば、市場でヒットしているほどハルヒの世間での認知度は高くありません。

もう一方の時かけですが、ネットだけを見ていると『ゲド戦記』と双璧をなすヒット作のように見えます。けれども興行収入ランキングには入っていません。上映館がすくないからであるというのは一方的な見方です。いまでこそ拡大上映となっていますが、公開当初、満員御礼がつづいていたのは東京と大阪だけで、都近郊の映画館は人が入らず早期打ち切りになったりする状況でした。8月半ばの段階では、全国興行収入の半分をテアトル新宿が叩き出していたといいます。そういう状態であるにもかかわらず、時かけオールナイトには大学生から40代くらいまで幅拾い年齢層の人々が集いました。わたしの周囲での認知度も高いです。

つまり、ハルヒのヒットは話題の広がりとしては限定的ですが市場規模が大きく、時かけのヒットは市場規模としては限定的ですが話題の広がりは大きい、のです。

これはなにを意味しているのでしょうか。

■ 口コミの伝播力が強い「セグメント」

ネットで口コミが広がるというのはどういう状況でしょう。blog、SNS、個人ニュースサイト、2ちゃんねる、こういったところを経由してでしょうか。

人々は、自分の趣味でネットの情報を追い、発信します。行動は、受動的ではなく能動的です。この情報の広がりにおいて、ある分野にもともと大きな興味を持っている集団がいれば、興味を持っていない集団よりうまく口コミは伝わっていくでしょう。マーケティングの世界では、こうした同じ傾向を持った集団のことをセグメントと呼びます。

ハルヒと時かけの例から、口コミによる情報の広まりは、現状で、セグメント化された分野で強力な力を発揮し、マスをターゲットにしたときの市場への影響力は限定的な場合がある、という推論を導き出すことができます。これ以上のマーケティングの話は専門家のかたにまかせますが、ネットの登場によって、市場はこれからどんどんとセグメント化されていくと予想できると思います。

ネットというものは、旧来のメディアに比べると情報の受け手の能動性が増しています。前回のエントリーで、「YouTubeによってテレビ番組の断片が解釈されるようになっているのではないか」と書きました。それをもっと大雑把にくくると、テレビを見るからテレビで遊ぶへ、ということなのだと思います。ネットにおけるセグメントというのは、非常にゆるい繋がりの遊び仲間の集団なのだと捉えることもできるでしょう。

昨年起きたライトノベルブームも、根っこは似たようなものだったとわたしは考えています。そもそも、ライトノベルの歴史は、テーブルトークRPGという「遊ぶ」行為と密接な関係を持っています。ファンタジーとRPGが流行していた1980年代終盤から1990年代初頭にかけて、読者は、知らず知らずのうちにライトノベルを素材として遊んでいたのです。

ハルヒという作品では、アニメ素材が(法的な問題を抱えながらも)ネット上を駆け回り、MADアニメがYouTubeにいくつもアップされました。ネット時代の二次創作のひとつの形です。漫画やアニメ作品の二次創作は1980年代から同人誌という形で盛んになっていましたが、イベントに参加し同人誌をつくる行為の敷居はかなり高いものでした。アニメという素材とネットという場を得ることにより、人々は、「ハルヒというコンテンツで遊ぶ」楽しさを知り、その流れがオタクセグメントを席捲したのです。

■ 物語で遊ぶ人々

ディズニーランドやジブリ美術館に行くのも、物語で遊ぶことです。一見、クリエイティブな遊びではないように思えますが、頭の中で行われていることは似ています。なぜなら、来訪者は、施設で遊びつつ頭の中で物語の断片を妄想をしているからです。飛行機の玩具を手に持ちながら「ブーン」と飛ぶ真似をする幼児の楽しさを、大の大人が本気になってやっているのです。そもそも、二次創作は(というか創作そのものも)、頭の中の妄想を具現化する行為です。

コンテンツの送り手側的思考をすれば、ディズニーやジブリ級のヒット作になったら妄想ランドをつくってやるから、それまでは頭の中だけで我慢しろということになると思います。つまり、時かけの話題の広がりと、ハルヒの大ヒットを合わせ持てと言うわけです。ですが、いまはガンダムミュージアムが閉鎖される世の中です。すべてがディズニーやジブリのようにうまく行くことはありません。妄想ランド建設のしきい値を越えるのは非常に困難なのです。ならば、わたしたちは、それぞれ個々人が気にいった作品で妄想を具現化するしかありません。

「物語で遊ぶこと」は読者の権利です(まあ、著作権法的にはいろいろ難しい問題があります)。というか、それが、印刷技術が発達する以前の物語のありかただったのではないでしょうか? 鈴木さんの第1回のエントリーで、「印刷技術が宗教のありかたを変えたようにネットが宗教のありかたを変える未来を想像する」ことが書かれていますが、物語についても同様の変化が起きる可能性があります。

これからの小説や映画は、単に物語を提供するということだけでなく、物語の素材を提供するということになっていく可能性があります。それは、ある意味、物語の手綱を書き手が手放すということでもあり、従来の小説の書きかたで考えれば非常に無責任なやりかたに見えるかもしれません。今回はせっかくネットという舞台を用意していただいたことですし、「ギートステイト」は、遊べる物語というものはなんなのかを試行錯誤する場にしようと考えています。

ところで、今月末に発売されるThe Sneaker12月号で『時をかける少女』特集を組むそうです。映画が公開されてから、東さんとわたしは、顔を合わせるたび『時をかける少女』のすばらしさについて語っていたりするのですが、どうにも、その感動を第三者に直接伝える言葉がわたしの中にはありません。なので、そちらのほうは批評が本職である東さんにまかせることにして、わたしは、作家らしく、自分の想いを短編小説としてまとめました。他にも何人かの方が、同じようにタイムリープ物の小説を寄稿されていると聞いています。機会がありましたら、読んでいただければさいわいです。

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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